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『いつも誰かが入れない:「女人禁制」から考える日本の性差別システム』より、伊藤春奈「はじめに」を公開します

2026/8/31

2026年9月28日発売、伊藤春奈『いつも誰かが入(はい)れない:「女人禁制」から考える日本の性差別システム』より、伊藤春奈さんによる「はじめに」を公開します。
フェミマガジン『エトセトラ』で2020年から2026年まで連載した「ここは女を入(い)れない国」を、大幅加筆した本書。「伝統」という名のもと特定の性を排除してきた文化「女人禁制」とは、一体なんなのか?  マイノリティの居場所を奪おうとする、この日本社会の生きづらさの根底にある性差別の歴史と構造を、フェミニズム全開で(つまり怒り全開で)解き明かします。まずは、「はじめに」をぜひ読んでみてください。

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 はじめに―― 「道」ではなく「場」をつくる  伊藤春奈

日々、危ういバランスで立っている。足元がおぼつかないので、「着実に歩んでいる」という実感が乏しくなりつつある。7割の不安に怒りが2割、残り1割に希望らしきものを詰め込んで、絶望しないように、日々をやり過ごす術が身に染みついてきた。

この国では差別を制度化・慣習化してきたが、それがどんどん加速している。植民地主義は100年以上前から継続し、反省することもなく外国人差別が助長され、入管や警察署で外国人が命を落とし、福祉や教育、文化がないがしろにされる一方で軍事費は増大している。明日が見えず、弱い立場の者はどんどん自尊心が削られていく。行きつく先はどこだろう。

本書はフェミニズムマガジン『エトセトラ』の連載に加筆修正したものだが、その出発点は2018年、大相撲の土俵問題への驚きと怒りにあった。当時、それなりに話題を呼んだこの一件も、かの医大入試差別問題が起こると、雪崩を打ったように多くのフェミニスト、メディアがそちらに注力した。入試において女性差別がまかり通っていたとなると、多くの人が当事者になりえるわけで、放ってはおけないからだ。対して、大相撲の土俵問題の当事者はきわめて少ない。「(伝統だから)仕方ない」「(伝統だから)女性差別ではないかも」といった向きが大半だったと思う。

連載を重ねて私自身の「女人禁制」への理解が進むにつれて、怒りの解像度はあがった。いかに排除が進み、差別が正当化されてきたのか、その歴史とわずかな変化、全体像が見えてきたからだ。すると、「女人禁制」とはジェンダーを問わず誰もが当事者であるはずだという確信が深まった。「女人禁制」というと、「主に宗教的な背景から、特定の場所に女性を入れないこと」だと理解されている。この「定義」がそもそも目くらましだったのかもしれない。

「女人禁制」の本質は、男女二元論、異性愛主義でマジョリティ(シスジェンダーで日本人、健常者など)を中心に据えようとする、日本の性差別システムである。さまざまなマイノリティを排除して、伝統的な家族観を守り、シスジェンダー/異性愛の男性によって場を独占して社会を回していく文化、慣習のことだ。家族観は、たとえば歌舞伎のように分野によっては前近代的だったり、近代家族規範だったりする。具体的には各章をお読みいただくとして、ここでは、「女人禁制」の根拠とされることの多い「穢(けが)れ」のなんたるかを指摘した文章を紹介しておきたい。

「日本人がなぜ血を――特に経血や産血を穢れたものとするようになったのかということである。(……)男性が女性を本質的に異なるものであると考えることによって生じた、月経や出産に対する不浄観が、女性を不浄な存在へと追いやったのではないかと思われてくる」(中野優子「女性と仏教――仏教の血穢観と母性観」〔『宗教のなかの女性史』、青弓社〕)。あるいは、「母性」と仏菩薩の愛とを同一視する言説についての指摘。――「平等・献身・無私・調和・安定・自然という言葉が連想され、日本的母性のイメージがよくあらわれている。また、こうした教団内の資料には、女性の自己犠牲的母性愛を賞賛し、女性に対して、母としての自己犠牲を強いるものが非常に多い」(前掲書)

かつて女人禁制だった寺院で修業した高僧が、麓の里にいる母に支えられて見事に修行をまっとうした、といったたぐいの美談がある。似た構造は今もあるにもかかわらず、仏教の学術界隈では批判的な声をあまり聞かない。そう、仏教界の「女人禁制」もしかり。批判的に読み解く術を教えてくれたのは、仏教研究者である源淳子さんらフェミニストの先達であった。「1300年の伝統」という権威を笠に着ていまだ禁を解かない大峰山(奈良県)関係者から源さんが聞いたという言い訳「男の甘えを許してほしい」も記録しておきたい。

仏教にかかわらず、マイノリティを排除して恥じない日本社会を見事に象徴するフレーズだ。身近なところで似たフレーズを聞いたことがある人は多いのではないか。「甘え」という懐柔によって、「男」以外には変わらずケアを求め、周縁に留め置くことを強い、言葉を奪ってきたこの社会。「伝統」としておけばみな言うことを聞くだろうという「甘え」は、欺瞞にすぎない。変わらない、変えさせないことで多くの人が場を奪われ、言葉をかき消されてきたのなら、暴力的ですらあると思う。

(中略)

『エトセトラ』で「女人禁制」の連載をはじめてから早くも6年が経つ。世界中でフェミニズムとは真逆の政治が横行し、腐敗の極みである。私自身、なぜこの問題にこだわったのか振り返ってみると、フェミニズムと出合う前の状況に戻りたくない、という気持ちが強いからだと思う。フェミニズムに出合う前は、世に言われる標準的な価値感になじめず、どこに行ってもお前はいらないと言われ、居場所がない気がしながらも、わずかに残る自尊心を頼りに生きていた気がする。

この疎外感はどこから来るのか。それを突き詰めると、日本社会で排除の文化を築いてきた「女人禁制」を、今を生きるためにも捉え直すことが必要だと気づいたのだ。フェミニズムに出合ってからは、大げさではなく、私も言葉を発していいのだと初めて実感できた。そう思わせてくれる人に出会い、言葉に出会い、歩いてくることができた。それは、「〇〇衛門」「〇〇千代」といった「名前」は持たずとも、「〇〇道」という道でなくとも、居場所があるのだと教えてくれた先輩フェミニストたちのおかげだと思っている。

本書の究極の目的は、読んだ人が生きるなかで助けになるなにかを少しでもつかみ取ることができ、目の前の「女人禁制」を変えていけたらということに尽きる。
「女人禁制」とは日本式差別そのものであり、この社会の生きづらさを再生産する――そう、「文化」といってしまっていいだろう。これを打ち砕くことは、誰もが普通に生きて暮らせる社会に通じるはずだ。

各章は連載に加筆修正し、かつ「連載のその後」もなるべく付した。第1章では、2018年の大相撲の土俵問題が単なる差別であることを論じた。『エトセトラ VOL.6』スポーツとジェンダー号にてインタビューした、女子相撲の今日和(こん・ひより)さんの言葉を振り返りながら、いまなお世界で相撲を取る仲間を増やし、楽しさを広めている今さんの活動も紹介する。第2章は、連載時の「歌舞伎」(VOL.4)を大幅に加筆修正し、映画『国宝』、舞台『弱法師(よろぼし)』など、古典芸能にまつわる現代作品の批評を軸に、古典「業界」のなにがだめなのかを考えた。第3章の「山」では、宗教的な女人禁制文化が、アウトドアなど周辺文化にまで及ぼしたミソジニー、性的マイノリティ排除文化について怒った。終章の炭鉱では、取材などを通して出会った人々を紹介しながら、見過ごされてきた私たちの労働、他者化してきた朝鮮人女性たちの労働、植民地主義について考える。

そして、『女人禁制号』収録のナモナモ寺・野世阿弥さんのインタビューと柚木麻子さんのエッセイを再録している。ふたりのフェミニストが実践を経て語る「女人禁制」もぜひ読んでほしい。
歴史上と今を行き来しながら、私たちの足元から、私たちの仕事、生きる場をつくるための言葉をこの先へとつなぐことができればと願っています。