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「女の知恵は針の先」第17回:ラップとわたし(フェミニスト手芸グループ山姥)

2022/12/14

 

“政治的な”制作活動をしているフェミニスト手芸グループ山姥。この連載は、彼女たちが毎日生活したり活動したり、編んだり縫ったりしながら考えたあれこれの記録です。今回は、最近、日本語ラップにハマっているマルリナさんがHIP HOPのおかげでちょっとだけ解放された(かもしれない)、家族との距離について。

 

今回の担当はマルリナです。ライブレポみたいなものをしてみます。

10月23日、わたしは国立代々木競技場第一体育館にいた。

「THE HOPE」というHIP HOPフェスに参加するためだ。ここ数年、HIP HOPにハマっている。より正確に言えば日本語ラップにハマっていると言うべきかもしれない。特定の好きなHIP HOPのグループがいるのだけれど、そこから派生して他のアーティストの日本語ラップも聴くようになった。

まだまだ知らないことも多いわたしに、この「THE HOPE」というフェスは最高の場だった。恥を忍んで言うと、名前は聞いたことはあるけど、曲をちゃんと知らない、ライプで聴いたことがない、でもめちゃくちゃ気になるというアーティストの名前が出演者リストにたくさんあった。

しかも、会場は代々木体育館というめちゃくちゃでかい箱でテンションがあがる。小さい箱も好きだが、大きい箱の地響きもたまらなく好きである。わたしにとっては浜崎あゆみの年末コンサート以来の代々木体育館だ。都内に住んでいるので交通アクセスも良し。開催時間も昼の0時からで良し(オールナイトイベントは参加する勇気が出ないのとそのあと3 日ほど布団から出られなくなること確定のため体力的に参加できない!)。かなりの神イベントである。

全力で楽しみたいので、勤勉なわたしは予習として Spotifyで「THE HOPE」が作ったプレイリストを入念に聞いて、なるべくアーティストと曲が一致するよう努めた。曲によっては、歌詞が連動していたが歌詞が出てこないものは、ググってわかる範囲で確認した。

この連載で3回ほど、自分や自分の家族のことを書いてきた。誰に強要されたわけでもないので書きたくて書いていると言われればそうなのだが、若干の複雑な思いはある。なんて表現したらいいのか迷うけど、例えば現政権(国?)が想定するような家族(母・父・女の子・男の子の4人構成の家族。笑)ではないことで、いやな思いもしたし、その自己嫌悪から周りの人間も傷つけてきた。どこまで自分のことを人に話すかは常に考えていて、話してみたら案の定、土足でずかずか踏み込まれて後悔したこともあった。どこまで書くかとか何を書くかは悩ましいところで、いつも葛藤している。

にもかかわらず、原稿書くのにエンジンかかるのがいつもとてつもなく遅いのに、スラスラ書けてしまうのもまた自分や家族のことだったりするのである。不思議極まりない。

「THE HOPE」のプレイリストで聴いた曲には、生い立ちや過去が赤裸々に表現されている歌詞が多く、強くて渋い(!?)言葉の数々に妙に救われた。フェスの当日はステージ上のアーティストをオペラグラス超しに必死に追いかけ(見渡す限りオペラグラス持参者はわたしのみ)、熱のこもったステージパフォーマンスに惚れ惚れした。

「電気や水道 ガスも止まり震えるハロウィン 神様のイタズラならくれてやるよ キャンディー」(Zot On the Wave「TEIHEN feat.YZERR&Candee」)

「愛見えないから体に描いた 机の上に薬物とか大麻 High School Dropout 聴いてくれよパパ」(DADA「High School Dropout」)

「人生は引き返せない二度と チャンスは自分で掴むもの もう一度書き直すシナリオ」(Awich「Queendom」)

「夢は平等に見るものだぜ当然 誰かに邪魔されるものじゃないぜ 尖ったあの目のあの通りの子 そのあの子が夢見る今日」(BAD HOP 「Bayside Dream」)

熱いパフォーマンスと、会場の地響きと、充電が残っている限りスマホのライトを照らす観客がわたしに開放的な時間をもたらしてくれた。そのときだけは卑屈な自分を少し遠くに置くことができた。

自分や家族のことについて書くこととどう距離を取っていくかはいまだに答えが出せていない。でも、わたしにとっては「個人的なことは政治的なこと」を実感する作業でもあるし、ラッパーという同志(勝手にそう呼ぶ)も見つけたので、ほどよい距離を探っていきたいなと思っている。

好きなアーティストの版画Tシャツ(自作)

 

フェミニスト手芸グループ山姥(やまんば)
2019年からマルリナ・かんなの2人で、フェミニズムや自分たちの好きな本、漫画をテーマにした手芸(刺繍や編み物)をして活動中。山姥は俗世間に馴染めず、おそろしい存在として排除されてきました。しかし、実は彼女たちは歴史や制度、そして男たちの期待する女の姿に押し込められず、闘ってきた女たちではないでしょうか。そうした先人たちの抗い方を見習いたい、そんな思いで活動しています。