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『エトセトラ Vol.9』より 伊藤春奈「特集のはじめに」を公開します

2023/5/15

エトセトラニュース

2023年5月26日発売『エトセトラ Vol.9』より、特集「NO MORE 女人禁制!」の伊藤春奈(花束書房)さんによる「特集のはじめに」を公開します。女性史を中心に長年活動してきたライターである伊藤さんとだからできた、“誰かを排除してきた”歴史を考え、いまに繋げる特集です。特集外も含め、今回も多様な書き手のみなさんとつくった一冊。刊行までしばしお待ちください。

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「特集のはじめに」
伊藤春奈

 毎日、頭のすぐ上を厚い雲で覆われているような重苦しさを感じてから、ずいぶんと経つ。

 新型コロナウィルス感染症が広まりつつあった頃、感染者を追いつめるようなパニックをみて、私はハンセン病における「無らい県運動」を思い起こした。患者を強制隔離する法律のもと、「らい患者一掃」などと称して感染者を排除した運動である。コロナ禍初期、老親のいる某県の感染状況を注視していた私は、陽性者が出た銀行にコンクリート片が投げ込まれるという古典的な事件を知りぞっとした。偶然だが、この県は戦後、無らい県運動のトップに躍り出たことがある。

 感染者が適切なケアを受けられず、社会に排除と差別を引き起こすという点でふたつの感染症はよく似ている。コロナ禍でも、ステイホーム、三密など、国が繰り出すキャッチーなワードに人々は翻弄され、不安が解消されないままDVや自死数が増えた。この「不安」は「恐怖」をうみかねないから、とても厄介だ。さらにこの間、国会議員が同性愛者への差別発言を繰り返し、かつ差別を禁止することを拒み、女性支援団体へのデマが吹き荒れた。私は、土俵で救命活動をした看護師たちが下りろと命じられたとき以来の怒りを感じた。人心の荒廃は続いている。

 2018年、土俵問題が起きてからまもなく、東京医大の入試不正問題が発覚した。この2件は、根の深いところでつながっていると思う。医療の「正当な」仕事とは医師であり、看護師がサブ的に見なされてきたことは、そのジェンダーバランスからして明らかだ。土俵から下りろと看護師が言われたのは、ケア労働への軽視があるからだろう。その軽視があからさまにビジュアル化してしまったため、相撲協会は「緊急時、非常時は例外」とするとして「謝罪」し、幕切れとした。

 相撲協会が公表している「女人禁制」の理由は、「男が上がる神聖な戦いの場、鍛錬の場」であり、神事であり伝統文化だからというものだ。宗教や伝統にもとづく権威性を帯びた場とは「男」の職場であり、「女人」は入ってはならない。これが「女人禁制」のロジックであり、甲子園球場、古典芸能、山、祭りなど、「女人禁制」文化が色濃い分野にもあてはまる。たとえば板前は男が鍛錬する正当な修行であり仕事だが、家庭料理は「母親」「妻」による無償ケアワークである、といった具合に。

「男の甘えを許してほしい」とは、いまも結界を解かない山の関係者の発言だ(詳細は本特集を参照)。これもまた「女人禁制」の本質をよくあらわしていると思う。看護はしろ、ただし男の土俵に入るな。田舎に帰って出産しろ、そうすれば奨学金は出してやる。家事・育児・介護もしろ。ただし祭りには参加するなよ。――「男女」からなる家父長制秩序を守りたいというのが「男の甘え」なのだろう。

 政治・経済・文化を限られた層だけでまわし、ケア労働は女性や外国人労働者に丸投げ。無策の感染症対策に自然破壊と五輪強行、入管や労働現場における外国人への人権侵害など、この間に数々の暴力がまかり通ってきた。それらを支えているのは、「女人禁制」が歴史的に築き上げてきた、男女/公私二元論、異性愛主義、家族主義、性別役割分業などである。マイノリティへの差別システム「女人禁制」は、もはやこの国のお家芸だ。だからこれらを死守するために「(同性婚は)家族観や価値観、社会が変わってしまう課題だ」などと総理大臣が言ってはばからない。

 そもそも、人のあり方も営みも、二元的に割り切れるものではない。

「名前」があれば、なんなと生きていける世界なんですよ。――この特集の制作中に聞いた言葉だ。「名前」とは、何代目何右衛門とか、何千世とか、家父長制のもとで継がれてきた、地位や名誉、家柄、権威みたいなものだ。

 100年もすれば人は死ぬ。だから「名前」など紙きれに等しいと思うが、おそらく世間では逆にとられているのだろう。では、「名前」を持たない人たちのあゆみは、どれほど語られてきただろうか。望む「名前」を得られなかった人への抑圧が、「伝統」や家父長制のもとに続いているということも。「名前」など持たずとも自分だけの生をもとめた人にこそ、私はひどく惹かれる。

 もちろん「伝統」にはいい面もたくさんあるし、私も基本的に好きなものが多い。すべてが移り変わるからこそ世界は美しく、必ず巡ってくる別れのかなしさや変わらぬ人間のありようが、見事な結晶となって「伝統」をうむこともあっただろう。しかし、それがただの「名前」となって、ある属性の理想を再生産するだけのものになってしまったらどうだろう。また「名前」は、ときに「〇〇道」といった金看板を掲げて権威化されてきた。権威化され整備された道路も、いまはひび割れ、無様な姿をさらしているようにも見える。

 一方で、その道端から新たな道をひらく人たちもいる。ときに茨で邪魔されながらも、一歩ずつ踏み固めて。道は、当たり前に誰でも入れて、進んでいけるものであってほしい。

 この特集は、これまで私が『エトセトラ』で「女人禁制」をテーマに連載してきたことから企画された。「女人禁制」について知ることは、誰が「女人」を、どう規定してきたかの歴史を知ることでもある。そこには目を覆いたくなるような差別の歴史も重なっている。ただ、その差別とは最初から自然にあったものではない。すべて人間がつくりだしたものだ。

 連載中、ひとりで「女人禁制」を考えれば考えるほど、なぜこの差別がうまれ、なぜまだ続いているのか、そしてなぜあまり関心を持たれないのかと疑問が膨らんでいった。その答えを探るための言葉を、信頼する書き手や語り手たちと一緒に集めたつもりだ。それによって、「女人禁制」がマイノリティへの差別・排除と深くつながっていることを示せたと思う。

 くりかえすが、「女人禁制」のような差別は自然に発生したものではない。人間がつくったのだから、人間がやめることができるはずだ。「女人禁制」という嘘の言葉は、もういい加減過去のものにしたい。