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2026/9/16

高井ゆと里さんによる、トランスジェンダーとフェミニズムの関係について、あるいはトランスジェンダーによるフェミニズムについて、今、ここから考えていく連載です。第2回は、日本でトランスフェミニズムを語るときに避けては通れない、田中玲『トランスジェンダー・フェミニズム』(インパクト出版会、2006年)について。田中さんにとって、自分が置かれている社会的・政治的な立ち位置を作り上げる「権力構造」に目を凝らし、これまで不問に付され続けてきた性別に基づく差別や抑圧を暴き続けるものが「フェミニズム」でした。このような実践と言葉を共有してくれるフェミニストのトランスジェンダーがこれまでもいたし、ここにもいるという力強い事実から、私たちもフェミニズムを継いでいきたいです。
日本でトランスフェミニズムを語るにあたり、避けて通れない著作がある。田中玲さんの著作『トランスジェンダー・フェミニズム』(インパクト出版会、2006年)だ。
(以下、この著作を「本書」と表記する。引用にあたってページ数を付記したが、参照の都合上第2刷(2013年刊行)のページ数であることに注意してほしい)
◆田中玲さんと「トランスジェンダー・フェミニズム」
田中玲さんは、女性として生きた経験を持つ。と同時に、本書が刊行された時点では、男性として社会的に位置づけられる状況を生きてもいた。
そんな田中さんは、以下のように自分の性を理解し表現している。
「私は大雑把に言うとFTMだが、『本物の男』になろうとは思っていない」(40)
「正確に言うと、FTMTXと言えるだろう」(40)
田中さんは(当時の)他のFTM(≒トランス男性)とは異なり、「男性」としての端的な自己理解を持ってはいなかった。
そんな田中さんが『トランスジェンダー・フェミニズム』を書いた理由は、次のように語られる。
トランスジェンダーとフェミニズム。私はトランスしているフェミニストの一人として今、ここにいる。私はFTM(female to male)に見えるため、「男の特権を手に入れたかった人」と解釈されるかもしれない。しかし、私はもしも自分が下半身の手術をするとしても、戸籍上の性別変更をするつもりは全くない。私はずっと「性別」という強固なものの境界線上に立ち続ける。そして、トランスジェンダーが自らの境界線上の視点から、フェミニズムにもたらすものがあると信じている。(「あとがき」155-156)
田中玲さんは「性別越境者」であると同時に、男女で強固に区切られた「性別」の境界線の上に立ち続ける。そして、その「境界線上の視点」から、フェミニズムに貢献できるものがあると信じている。
その信念から生まれたのが『トランスジェンダー・フェミニズム』であり、そうした背景から、本書の焦点は「性別」そのものに向かうことになる。
◆「女」であること
本書には、大小のエッセイや書評、論考が収められている。そのため各原稿の当初の刊行時期には若干のばらつきがあり、そうしたばらつきは、それぞれのエッセイや論考を執筆した時点での田中玲さんの状況の差異を反映してもいる。
「「女」というカテゴリー」と題された本書の最初のエッセイ(初出2000年1月)では、「(…)私は、自分自身が生活している時代と場所の中で、社会的・政治的に「女性」と位置付けられていることと、同じく「女性」とされる人ともセックスや恋愛をすることで「レズビアン」とみなされること、という地点から模索を始めてみようと考えた」(14)と語られる。
田中さんは女性としてのアイデンティティ(性自認)を持たず、女性として生きることに違和を経験していた。しかし、社会的・政治的に「女性」として位置付けられ、「レズビアン」と見なされるのは事実であり、それゆえこの時点で、田中さんはその状況と事実を引き受ける。
そのうえで、一人のフェミニストとして「性別違和感を持たない「女たち」とも共に闘う」(17)ことを選ぶのである。
◆「男」であること
その約5年後に書かれた「女である、ということ」(初出2004年12月)では、そうした「女」としての状況からの変化がつづられる。たかだか「声が低くなり、体毛が濃くなり、筋肉質になった」だけで、「一般社会の反響」は大きく変わってしまったのである(32-33)。
今では女性用のトイレに入るだけで痴漢と間違われるリスクがあり、脱衣所や銭湯は、女性用のものも男性用のものも使いにくくなった。その一方で、フェミニストの主催するイベントでは「男性にも来てもらえてうれしいです」と言われてしまう(33)。
こうした不可思議で、おそらくは不本意な状況に、FTMTXである田中さんはどう応じたか。田中さんは、「男」であるという立ち位置を引き受けようとした。
だが、男であることで、不必要に女性の警戒心をあおり、距離を感じる。だから、男であることを引き受けざるを得ない。トランスして一番損をしているなと思うのはそのようなことだ。(…)見た目でなく、内実で判断して欲しいと言っても、なかなかうまくいかないだろう。(33-34)
以上のわずかな引用からも分かるように、田中さんにとって「女」や「男」とは、まずは「否応なく位置付けられるもの」であり、「引き受けざるを得ない」ものである。
ただし、その引き受けは単なる「男」への同一化ではない。田中さんは、「見た目は男でありながら、女であった経験を持つ、ということ。それが私自身の本当の姿だ」としたうえで、その「境界線から見えるものをたくさんの人に伝えたい」(34)と語る。
◆性別の一貫性
先にも触れた「「女」というカテゴリー」には、次のような文章が登場する。
私の中では、私のセクシュアリティー――身体的性別、性自認、性役割、性指向——は、身体的性別=「女」、性自認=「女」、性役割=「女」、性指向=「男」というような「ヘテロセクシュアル女性」を表すような一貫性を持ったことがなかった。(13-14)
ここでは性のあり方が4つの要素に分けて説明される。身体的性別、性自認、性役割、性指向。このうち「身体的性別」は、おそらく「女性/男性集団に平均的に備わる身体的特徴」を指す。また「性役割」は、社会生活において男女どちら側の性別の人間としての振る舞いや存在を期待・追認される状況にあるかを指すだろう。
これら4要素を挙げた上で、田中さんは「ヘテロセクシュアル女性」にはこれらの要素に「一貫性」がある、とする。すなわちヘテロ女性は身体的性別も、性自認も、社会生活上も「女」で、性的指向も男に向く。
こうした一貫性が、トランスジェンダーには欠けている。性自認は女性だが、男性として生活させられていたり、男性として生活しているが、女性にありがちな内性器や外性器を備えていたりする人がいる。
本書の重要な理論的貢献のひとつは、こうした性別の「一貫性」という視座を設定したうえで、たとえそれらの一貫性を満たさないとしても「女」や「男」という立ち位置に置かれる人がいる、という事実からフェミニズムを出発させようとしたことにある。
◆フェミニズムは何を問うか?
田中さんにとって、フェミニズムは次のようなものだった。
私が社会的・政治的にどのような場所に置かれているのか、それを指し示してくれたのは、フェミニズムだ。「私は本当は何者であるのか」という認識論の罠に陥ることなく、また、自分自身のあり方をただ肯定し正当化するのでもなく、どのような権力構造が私の内と外にはりめぐらされているのかを教えてくれたのは、「女性たち」であり、私と同じように性別が女/男のふたつに分けられることに疑問や違和感を持つ人々だった。(14)
「本当の自分」を探すのでもなく、今の自分をただ肯定するのでもない。自分が置かれている社会的・政治的な立ち位置を作り上げる「権力構造」に目を凝らし、これまで不問に付され続けてきた性別に基づく差別や抑圧を暴き続ける。
田中玲さんにとって、それがフェミニズムである。そこでは、自分(たち)が誰であるかではなく、自分たちの内外に張り巡らされた権力の網の目こそが問題なのだ。
◆性別二元論とフェミニズム
そうしたフェミニズムの権力批判にとって、どのようにして「性別」が女/男へと分けられ、固定化され、その状況が自明視されていくのかを問うことは避けられない。
そして、トランスジェンダーにはその「性別を分ける権力」の働きがよく見える。性別を変えるというのは、そうした一見すると堅固な男女の二分法が「自分の目の前で解体していく現象をリアルに体験する」(18)ことだからだ。
世の中の多くの人は、性別は「生物学的」に決まっており、そうした「生物学的性別」に従って、社会生活はすべて成り立っていると信じている。
しかし実際には、トランスジェンダー(やインターセックス)の人々のように、性別と結びつくとされる身体の特徴が、社会生活上の性別における標準的なそれと一致していない人もいる。「実は、「性別」は日常生活において、単に第三者から見てどう見えるか、ということ以上でも以下でもない」(19)。
にもかかわらず、私たちは見えもしない「生物学的性別」が見えると信じており、男女の境界と差異は自然学的に決定されていると信じている。
田中さんに言われれば、その「「女」「男」という分け方がどれほどいい加減なものか。しかも、「明確」なものとして、この社会の中で絶対的価値を持っているか。それを感じとることができるのは、トランスジェンダーの特典だ」(24)。
現在の女性差別的な社会構造は、そうした差異に対する絶対的価値を維持することによって、自分を生き永らえさせている。だとすれば、このファンタジーを打ち砕かなければならない。
もし、本当に社会の全てが「生物学的性別」に準拠し、全ての人が互いに「生物学的性別」を確認しながら生きているのだとしたら、トランスジェンダーによる性別移行は可能にならない。しかし、それは可能である。社会における「性別」が全て「生物学」的に統制されているというのは、ファンタジーだからである(本書27-28)。
◆フェミニズムへの問い
フェミニズムは、そのような自然主義的な男女の二分法を批判し、人が「女性」や「男性」という社会的・政治的な位置づけを与えられていく、その権力の働きに目を凝らしてきた。
しかし、昨今のフェミニズムにはそうした二分法への批判が弱まっている。田中さんはそう懸念する。
フェミニズムは、そうした「女」か「男」かで差別される社会を批判的に検証し、少しずつだが変えてきた。しかし、今のフェミニズムの流れを見ていると、ネイティブ、かつ、ヘテロセクシュアル中心の雰囲気がある。同じ「女」であっても、レズビアンやバイセクシュアル、ポリセクシュアル、パンセクシュアル、アセクシュアルの「女」のことや、トランスジェンダーで「女」になった人のこと、法律上女性だがインターセックスの人のことは想定すらしていないようにみえる。(28)
無意味な文脈で性差を持ち出し、それが正当な区別的取り扱いであるかのように、女性を劣位に置く。そうした男女二元論的な世界を批判してきたはずのフェミニズムが「シス・ヘテロ」女性中心になっていることを田中さんは懸念する。(※引用には「ネイティブ」という表現がある。現代では用いられないが、当時「シスジェンダー」という概念は広まっておらず、この語はよく用いられた。)
そこで取りこぼされている「女性」には、当然トランス女性も含まれる。「しかし、残念ながらほとんどのヘテロセクシュアル・フェミニストはそんな状況の中にいる「女」のことなど考えていないに違いない。パスさえしていれば、その人がカムアウトしなければ気付きもしないだろう」(28)。
女性として見なされ、生きている(=パスしている)トランス女性は、その存在に気づかれない。そうでないトランス女性は、男性だと見なされ切り離される。そうしたフェミニズムのあり方に、田中さんは異議を唱える。
◆シスターフッド
こうした無視と切り離しが起きるのは、シス・ヘテロ女性としての経験を「女性」の経験として普遍化する一方で、「女性」という社会的・政治的立ち位置を作り出している権力構造を問う視点が弱いからだ。
女性のフェミニストたちは「シスターフッド」という言葉を使う。女性同士、ということが重要なら、MTFでヘテロセクシュアルの人は入っているだろうか? MTFでレズビアンの人は? MTFが「女性」ではないと言われればそれまでだが、法律上性別変更している人も当然いる。ならばFTMは? 法律上女性だったり、法律上性別変更していても女性だった歴史を持つ人は?(43)
田中玲さんがそうだったように、「女」の立ち位置に立たされる人には多様な状況の人がいる。性別の一貫性がある人も、ない人もいる。だから、その立ち位置に置かれる「女性」の経験は決して一様ではない。
しかし「シスターフッド」は、ときにそうした差異を塗りつぶし、インターセックスやトランスジェンダーをはじめとする多様な女性たちの存在を抹消してしまう。
なお「あとがき」によれば、『トランスジェンダー・フェミニズム』の刊行のきっかけはレズビアン・フェミニズムのサイト「いらつめ」への寄稿だったとのことである。
「いらつめ」のエッセイや論考はどれも素晴らしいが、なかでもジャニスさんの論考「ヘテロ “フェミニスト” 嫌い」は、以上の田中玲さんと似た問題提起を含んでいる。ぜひ読まれてほしい。
◆トランスジェンダー・フェミニズム
性差別を生み出す男女の二分法が弱まり、女性差別がなくなることは、当然トランスジェンダーにとってよいことである。
世の中が決めた「女」と「男」の枠に押し込められ続けることが、他でもないトランスジェンダーの生きづらさを生んでいるのだから。
フェミニズムとは何か。私は今のフェミニズムのありように、トランスジェンダーが与えられる可能性を感じる。男女二分法の無意味さをトランスジェンダーは浮き彫りにする。性差別のない社会はあらゆる人にとって生きやすい社会であるはずである。そこから新しいフェミニズムをスタートさせることができるのではないか。私はそれを信じている。(29)
家父長制的な起源を持つ戸籍制度による、性別の公的な管理をやめさせること。ジェンダー化された家族関係を前提とした社会保障制度を、個人単位に置き換えること。
自然主義的に正当化された男女二分法に基づくそうした諸制度の解体は、フェミニズムの課題であり、トランスジェンダーを解放するものでもある。
先ほど、『トランスジェンダー・フェミニズム』がレズビアン・フェミニズムのサイト「いらつめ」から生まれたことを紹介した。
それに加えて、田中さん自身をレズビアニズムとフェミニズムに導いた人物として、本書では麻姑仙女さんの存在が挙げられる。
麻姑仙女さんは、MTFトランスジェンダー(≒トランス女性)のレズビアンだ。
日本のトランスフェミニズムの古典となった田中さんの『トランスジェンダー・フェミニズム』が、こうしたトランス女性・レズビアン女性たちとの出会いから生まれた事実に、私は胸が熱くなる。
私には性自認がない。生きていける道を探していたら、ただ事実として「男性」から「女性」へと、社会的・政治的に位置づく状況が変わってしまっただけだ。
性自認を問われれば、私も田中さんと同じように非二元的な性を答える。最近まで、ことあるごとに自分はトランス女性ではないと否定してきた。
私にとって、女性と男性しかいないことになっているこの世界はまるで意味不明で、物心ついたときから、世界に拒絶されてきた感覚がある。
しかしフェミニストの仲間が増えるにつれ、そうした性自認の水準とは別に、自分が社会・政治的位置づけとして「女性」になってしまっている事実から、ものを考える必要性があるという思いも強まってきた。いつまでも逃げているわけにはいかない。
田中さんが、あるときは「女性」「レズビアン」として、またあるときは「男性」として自分を引き受けることからフェミニズムを始めたように、私もまた、今のこの性=生から、仲間たちと共にフェミニズムを始めたいと思う。
田中玲さんは「境界線上の視点」という、トランスジェンダー(性別越境者)ならではの視点から、人間と世界を「女/男」に二分することそのもののいい加減さと悪とに向き合おうとした。
そのなかで、性別の諸要素の一貫性という重要なアイディアを通して、「女」や「男」であるとはどういうことかを問う営みをフェミニズムと接続した。
そのプロジェクトは、「トランスフェミニズムはみんなのもの」と題するこの連載とも密接に関係するものだ。
フェミニストであるトランスジェンダーは、いつの時代もいた。
私はその事実に嬉しくなる。麻姑仙女さんや田中玲さんが積み重ねてきたトランスフェミニズムの実践と言葉から、私はこれからも多くのことを学び継ぎ続けるだろう。
高井ゆと里(たかい・ゆとり)
倫理学者。トランスアクティヴィスト。「Tネット」アドバイザー。共著に『トランスジェンダー入門』(集英社)と『トランスジェンダーQ&A』(青弓社)、編著に『トランスジェンダーと性別変更』(岩波書店)、訳書にショーン・フェイ『トランスジェンダー問題』(明石書店)、テレサ・ソーン作/ノア・グリニ絵『じぶんであるっていいかんじ』(エトセトラブックス)があるほか、『エトセトラ VOL.14』では「特集:SRHR」の特集編集を務める。
高井ゆと里「トランスフェミニズムはみんなのもの」