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2025/5/20
2025年4月に刊行した、ギーターンジャリ・シュリー『砂の境界』の藤井美佳さんによる「訳者あとがき」を全文公開します。英訳が国際ブッカー賞を受賞、境界線で分断されたインド・パキスタン両国の歴史を背景に、インドの社会的な事件も織り交ぜながら、不可視化された女性の無限を描いた本書。ギーターンジャリ・シュリー氏の作品はこれが初邦訳となります。独創的で実験的、木や鳥や物語もしゃべりだす、時空を越えたこの世界をどうか味わってみてください。
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訳者あとがき
本書は、2018年にインドの出版社ラージカマル・プラカーシャンより刊行されたギーターンジャリ・シュリーのヒンディー語小説Ret Samadhi(原題:砂の三昧)の全訳である。のちにデイジー・ロックウェルによる本作の英訳版は、2022年国際ブッカー賞を受賞し、著者のギーターンジャリ・シュリーと翻訳者のロックウェルの両名それぞれに賞が与えられた。英語に翻訳された南アジアの言語の小説がこの賞を受賞するのは初めてのことだ。なお本書は、英訳版に欠けている部分についてもすべて翻訳し収録した。
◾️著者について
ギーターンジャリ・シュリーは1957年生まれのヒンディー語作家。インドのデリーを拠点として活動し、これまで、五つの長編小説と五つの短編集を発表した。歴史学を専攻し、レディー・シュリー・ラーム大学で学士号、ジャワーハルラール・ネルー大学で修士号を取得したのち、バローダのマハーラージャー・サヤージーラーオ大学の博士課程でヒンディー語作家プレームチャンドに関する研究に取り組んだ。大学院在学中にヒンディー語の短編小説を発表、卒業後は執筆活動に専念した。
母語であるヒンディー語を主軸とした創作活動を続け、小さな町の家庭を描写した最初の長編小説『母』、モスク破壊をめぐる激動の一年の都市部の生活を女性が語る『私たちの町、その年』、女性の愛と、階級やジェンダーなど抑圧から自由への逃避の物語『隠された場所』、普通の生活が突然奪われるさまを記した『空白』など、複雑なインド社会を生きる普通の人々の心の移ろいを親密な視点で描く。また、演劇集団「不協和音(ヴイヴアーデイ)」の創立メンバーとしても活動し、女性と女児に対する性加害と暴力を描く「排水溝の少女」などを執筆した。数度にわたり日本に長期滞在した経験があり、本書にも随所に日本文化に関する言及もある。影響を受けた作家の中には、太宰治、谷崎潤一郎の名前が挙げられている。
◾️インド文学の翻訳について
ヒンディー語は、インド憲法が定めた連邦公用語(インドがイギリスの植民地であったことから英語が準公用語として扱われ、このほか公用語として二一の言語が定められている)で、14億の人口を擁するインドの40パーセント以上の人々がこの言語を母語とする、主にインドの北部や中部で話されていることばである。
インドでは経済の発展とグローバル化が急速に進み、ビジネスや教育の場面では英語優位という状況にある。本書を英語に翻訳したロックウェルは、これまで10冊ほどのヒンディー語小説を訳しているが、いずれもインド国内の読者向けであった。本書の翻訳はイギリスの出版社で行われ、これが世界の読者がインドの書物を手に取るきっかけとなる。国際ブッカー賞のノミネート以前は数百部が売れるだけだったが、候補に挙がると2万5千部以上を売り上げたという。これに似た事例は過去にもあり、そのひとつが国内外で愛好されているタゴールだ。タゴールは、詩集『ギーターンジャリ』を自ら英語へ翻訳、出版したことから東洋人として初めてノーベル文学賞を受賞し、インド国内でさらに尊敬を集めるようになった。インドのことばで書かれた小説が英語に翻訳され、世界で紹介されたのちに国内で再評価を得るというのは皮肉な話に思えるが、作品の本質にふれる機会が増えるのは喜ばしいことではある。
日本では、研究者が長年にわたりインドの文学作品の翻訳を継続的に行っている。また、「アジアの現代文芸の翻訳出版」(大同生命国際文化基金)や、「現代インド文学選集」(めこん)などでも紹介されてきた。アルンダティ・ロイ、アニタ・デサイなど、英語で書かれたインドの女性文学、あるいはサルマン・ラシュディやジュンパ・ラヒリなど、インドにルーツを持つ作家の文学は、すでに世界的にも高い評価を受け、日本語にも翻訳されている。しかし、これらと比較すると、インドの各言語で記された小説に同様の注目が集まっているとはいえない。そんななか、ヒンディー語で書かれ、しかもインドの女性作家の小説が日本語に翻訳されることに至ったのは、きわめて幸福な事例であり、これをきっかけに、豊かなインドの文学が広く日本に親しまれることを願っている。(*)
* なお、2023年、インドのズバーン出版が、インド北東部女性作家アンソロジー『そして私たちの物語は世界の物語の一部となる』(ウルワシ・ブタリア編)が、笹川平和財団の協力を得て図書刊行会から出版されている。インドの中央から見ると地方にあたるインド北東部の、しかも女性が書いた文学作品が翻訳されるのは貴重である。
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さて本書は、「背中」「陽光」「国境の向こう」の三章からなる。夫を亡くしたばかりの80歳のお母さん(マー)を中心に、時に深刻に、時にユーモラスに、この世にあるさまざまな境界――性別や年齢、国籍、時間、空間など――と向き合い、乗り越えていく家族の物語だ。
◾️物語の背景となるインド・パキスタン分離独立と動乱文学について
1947年8月、インドとパキスタンはイギリスから分離独立した。ありもしなかった場所に一夜にして鋭く国境線が引かれ、かつては一つだった国と人々を分断した。この出来事は、インドやパキスタンのあらゆる人々の心にトラウマを残した。分離独立の動乱という重いテーマは、文学のみならず映画や絵画など、さまざまな芸術の形で表現されている。
このうち文学作品を「動乱文学」と呼ぶことがあり、本書の三章で登場するのが分離独立当時を生きた作家たちである。冒頭で、インドとパキスタンの間で唯一開かれている検問所ワーガーで毎日行われる両国の国旗降納場面の様子が描かれ、その場に居合わせた動乱文学の作家たちに動揺と困惑が広がる。そこへ狂言回しのように登場するのが、サアーダト・ハサン・マントーの短編小説『トーバー・テーク・シン』の主人公ビシャン・シンである。『トーバー・テーク・シン』は、分離独立を経た両国間で、精神疾患患者や犯罪者の交換が決定され、パキスタン側国境から引き渡されることとなった当日、患者のビシャン・シンがインド行きを拒否し、国境線に立ちすくむさまを皮肉をこめて記した傑作である。この作品は、「アジアの現代文芸」シリーズ(大同生命国際文化基金)の『黒いシャルワール』に収録され、図書館やウェブサイトから自由に読むことができる。
◾️マイノリティーとしてのヒジュラーについて
作中に重要なキーパーソンとして登場するロージー/ラザは、南アジア世界では第三の性、ヒンディー語あるいはウルドゥー語でヒジュラー、パンジャービー語でクスラーなどと呼ばれる存在だ。『インド ジェンダー研究ハンドブック』(東京外国語大学出版会、2018)によれば、ヒジュラーとは、男として生まれながら、通常は女装し、女性のように振る舞う者を指す語として広く用いられている。先天的な半陰陽も少数存在し、自らをトランスジェンダーとする当事者もおり、社会的には男でも女でもない第三の性をもつ者として扱われており、歴史的には、ヒンドゥー寺院やイスラーム宮廷を含めて社会的にその存在が認められてきたが英領期に入ると性的逸脱者として公共の場から排除されるようになったとある。
ヒジュラーは、文学だけでなく映画やドラマのなかで、重要な役として登場することも少なくないが、悲惨に描かれることが多い一方で、マジカルで奇異な存在として都合よく消費されることもある。南アジア世界を少し旅した人ならわかるだろうが、ヒジュラーは決して珍しい存在でないにもかかわらず、周縁の存在として生きることを余儀なくされ、社会的地位は圧倒的に低い。
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私が本書を知ったのは、英訳版が国際ブッカー賞にノミネートされたという記事を読んだときだ。すぐに入手して読むと、さまざまな場面のイメージが映像として頭に思い浮かび、色彩豊かな物語に魅了され、映画になったらすてきだろうと思った。本書が同賞を受賞した後、この本の出版に関心をお持ちだったエトセトラブックスの松尾亜紀子さんを知人から紹介され、著者のシュリーさんがオリジナルのヒンディー語からの翻訳を希望していることを知った。映画の翻訳者が書籍の翻訳に手を出すべきか迷いつつも、結局この壮大な小説を翻訳することになった。
ヒンディー語を巧みに柔軟に自由自在に操り、独創的で実験的な表現がなされ、時空を越えた世界を描くこの物語に翻弄されることもしばしばで、壁の前で丸まったまま動かなくなった80歳のマーと同じように、私の翻訳もなかなか前に進まなかったが、インドのミント紙の書評に、「挑戦的な作品であり、太陽フレアや接近する嵐のパノラマ写真、露が落ちるスローモーションビデオのように、輝かしく、好奇心をそそる」とあるように、ひとたび物語に入り込めばクセになる面白さが詰まっていた。
2024年にデリーで著者のシュリーさんを訪ねたときにも日本での滞在を楽しんだと語ってくれたが、本書でも日本語や日本文化に対する知識を随所で披露しているから、日本語以外の翻訳者は困難を強いられたのではないかと思う。何ページにもわたり句点がない文章と出合ったときには降参しそうになったが、のちに好きな作家として谷崎潤一郎の名前を挙げている記事を読んで得心し、それからは、あえて母語でしかできない表現で壮大な小説を書き上げた著者の仕事に敬意を表し、難しい表現を前にしても歯を食いしばって本と向き合った。マーがベッドから起き上がってからは、私の視界もだんだんと開け、本の世界に浸りながら翻訳を進めることができた。
なお、原題のRet Samadhi について補足したい。Ret は砂、Samadhi は仏教語「三昧」のもとになったサンスクリット語源のヒンディー語である。本作で著者は、吹き荒れる砂嵐の中、分離独立の混乱期に逃げ惑う母の様子を、猛烈な勢いの砂を浴び、それに耐え、三昧の境地にいたった釈迦の苦行と重ね合わせた。そしてこれを「砂の三昧」という詩的な表現で記した。 英語版翻訳者のロックウェルは、このシーンが死を連想させることや、「三昧の境地」が英語圏の人々に理解しづらいことから「墓」という訳語を選んだのであろうが、釈迦の苦行は、仏教徒の多い日本でよく知られた逸話でもあるため、本編ではもとの意味に即して「三昧」と翻訳し、本作が境界を乗り越えて生きる人々の物語であることから、タイトルを「砂の境界」とした。
世界のあらゆる場所に境界はある。それを軽やかに越えていくマーの軽やかな行動力と他者への思いやりは、分断による嫌悪や憎悪が広がりつつあるこの世界において、ひとすじの希望のように感じた。家父長制社会を生きるさまざまな世代の女性や男性の悲喜こもごもが、深く掘り下げて描かれ、自分の意志で社会に出ていこうとする女性の悩み、専業主婦という型にはめられて生きなくてはならない女性の思い、世代間のギャップ、男性という役割を負わされた人々の逡巡など、誰しも一度は感じたことのある思いがちりばめられており、どの世界でも共感を得ることのできる力強い作品だ。
最後になったが、ギーターンジャリ・シュリーさんとご家族に感謝を申し上げたい。国際ブッカー賞の受賞からシュリーさんは多忙な時を過ごしていたが、デリーのご家族の家で私を迎え、翻訳するうえで大きなヒントを与えてくださった。残念ながら、その後しばらくしてお亡くなりになったギーターンジャリさんのお母様は「あなたのバングル、きれいね」といって、初めて会った私の手をつなぎずっと離さずお話ししてくださった。ギーターンジャリさんに物語のインスピレーションを与えたのはこの方だろうと思いながら幸福な時間を過ごすことができたのは貴重な思い出だ。心よりご冥福をお祈りする。また、ヒンディー語の恩師の田中敏雄先生、石田英明先生、数々の励ましの言葉をかけてくださった町田和彦先生、字幕翻訳者の私に翻訳の機会を与えてくださったエトセトラブックスの松尾亜紀子さんにお礼を申し上げる。そして家族の協力がなくては、とても仕上げることはできなかった。家庭という小さく、親密で、残酷で、滑稽で、悲しくて、美しい世界を描くこの作品とインド文学が、これから日本で親しまれていくのを楽しみにしている。
2024年12月