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第2回 ピクサー女子と私

2021/3/3

津村記久子「圧力は部屋に入れません」

作家の津村記久子さんが、自分にとって「圧」のない好きとか楽とかを考える連載エッセイ。第2回は、津村さんが映画産業のなかで「もっともリアリティのある女子を描いている」と断言するピクサー女子たちについて!

 

この世のほとんどの女の子や女性が語る本音のようなことは他人事だと思っている。たぶん誰もがわたしより見た目がいいか、いい家の子か、その両方のはずだし。そんな人たちの言うことにうっかり共感したら、生きているカテゴリの違いにあとあと自分が傷付くのは目に見えている。アニメや漫画に出てくる女の子なんてもってのほかで、どれだけ悩みや苦しみがストーリー上で表出しても「見た目がいいからそのうち誰かがなんとかしてくれるよお」と思ってそこで終わる(男の子に関しても同じ)。

そういうわけでおおむね誰にも感情移入しない。話が逸れるけれども、わたしがスポーツをよく観るのは、女子であっても男子であっても「選手」は競技それ自体の中では性別のない「選手」で、競技を見ている間はその外のことを考えずに済むからかもしれない。それと比べたら「女の子」は、社会的にはわたしと違う性別の人たちだ。特にアニメとか漫画の中の女の子は関係ない。で話は終わっていたはずだった。ピクサーの映画を観るようになるまでは。

映画産業の中でもっともリアリティのある女子を描いているのは、わたしにとってはピクサーだ。映画どころか、ドラマも漫画も小説も含めたすべてのストーリーのあるコンテンツの中でと言ってもいいかもしれない。

『バグズ・ライフ』のおたおたしたアッタ姫あたりからなんとなくそう思っていたのだけれども、『ファインディング・ニモ』を観て確信した。よくこんな女出したな。しかも魚。というか魚だからこそ、あれだけの「落ち着きのない女」の圧倒的なリアリティが描けるのかもしれない。そうだナンヨウハギのドリーのことだ。

ここから本当にピクサーは、わたしから見て一切の虚飾のない女子を描くようになる。『Mr.インクレディブル』の髪で顔を隠した自分に自信のないヴァイオレット、『カーズ』の都会のできる女でいることに疲れたサリー、『レミーのおいしいレストラン』の怒りっぽくてタフで面倒見がいいコレット、『ウォーリー』の短気で仕事への誇りに満ち満ちたイヴ。『ニモ』より前の作品だが、『トイ・ストーリー2』の見捨てられた嘆きを抱えながら強烈なエネルギーを放つジェシーもすごくいい。

誰も彼もが自分より恵まれていて、たぶん誰にも自分のことなんかわからないだろう、自分の書くことなんか貧相すぎて誰にも届かないだろう、という時に、ずっとわたしを励ましてくれたのは、こういったピクサーのキャラクターたちであり、その背後にいるのであろうピクサーで働く女の人たちの存在で、それは今も変わらない。ピクサー女子たちの外観はとても個性的で魅力的だが、「見初められるか?」だとか「この中で何番目にかわいいか?」みたいな異性同性限らないルッキズムの圧力の外にいて、そのパーソナリティには「本当にそこにいる女」の怒りと誇りと優しさがある。

自分の知っているピクサー女子全員を紹介したいところだけれども、どれだけ時間があっても足りないので今回は三人取り上げる。

上にあげたキャラクターの中で、もっとも現代の働く女子のリアリティを体現しているのは、おそらく『レミー』のコレットだと思う。かつて五つ星を持っていたグストーのレストランで働くコレットは、突然現れたあやしいヘタレ見習いのリングイニに語る。
「フランス料理界は昔ながらのくだらないルールの上に男が建てた階級社会なわけ。そのルールの中では女がこの世界に入るなんて普通は無理。でもあたしはいる。なぜだと思う? このキッチンで一番タフだからよ!」

リングイニはヘタレだが、仕事を習いながらコレットの話に素直に耳を傾ける。リングイニの帽子の中のレミーも、コレットの話に学ぶ。攻撃的だったコレットの語りは徐々に軟化してゆき、「ありがとう、料理のことをいろいろ教えてくれて」と言うリングイニに「こちらこそ。(話を)聞いてくれて」と答えるようになる。「話を聞く男」がそもそも希少であるかのような嘆かわしい指摘の要素もあるけれども、全体的にはリングイニがコレットの仕事への情熱に静かに心を傾けるような美しい経緯だと思う。

『ウォーリー』の植物探査ロボットのイヴは、コレットと同じぐらい仕事をしている女子だ。なかなか使命が果たせない中、廃棄された大型船の磁石に捕まって苛立ったように腕からレーザービームを放って船を破壊する場面と、ウォーリーの住処で『ハロー・ドーリー!』の映像を見せられてうれしそうに飛び跳ねて踊るのだが、重量や強度がすごいのか、棚が揺れまくってウォーリーの住処の天井の形が変わってしまうところがとても好きだ。

宇宙船の中で「危険なロボット」に認定されてしまい、モニターに映し出された「危険なロボット」としての自分の画像を撃つシーンも本当に大好きだ。立ち居振る舞いのほとんどすべてがすばらしい。働いている女のプライドと強さと、いい意味でのがさつさがある。

そして使命に邁進するイヴを見守り、植物を見つけて一時停止した後も傍にいて、宇宙まで追いかけてゆくウォーリーのいじらしさに、わたしは観直すたびに十分に一回ぐらい泣く。わたしの知っている最高のラブストーリーは、たぶん『ウォーリー』だと思う。

『ファインディング・ニモ』のドリーはわたしだ。それまで人生でどの女の子を見ても、「わたしだ」と思ったことはそれまで一度もなかった。忘れっぽくてお調子者で、まったく落ち着きがないドリーはわたしだ。誰とでも話せるけれども男はいない、家族のことも忘れてしまった、何も持っていないドリーはわたしだ。

そんなドリーの同行を許したマーリンとの別れの時の、「あたし、あなたを見るとね、落ち着くの」というドリーの言葉を聞くたびに、わたしはあまりに気持ちがわかってしまっていつも嗚咽する。ドリーはアホだけれどもとても親切だ。「どっちだっていいよ。誰も僕の力になってくれないんだから」と嘆くマーリンに、「私はなるわよ」とあっさり告げる。わたしはそういう人間になりたかった。今もずっとそう思っている。

中心人物であったジョン・ラセターが#MeToo運動の告発を受けてスタジオを去ったことからもわかるように、なにもピクサーが女性にとって完全にものわかりの良い組織というわけではないのはわかっている。それでもピクサーの映画の女の子たちは、「それでいい」と励ましてくれる。二十代の自分に、あなたはあなたの思うストーリーを創っていい、小説を書いていいと勇気をくれたのは、他の誰でもない彼女たちだった。『ファインディング・ドリー』もすばらしかった。本当にどうもありがとうと言いたい。