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【特別ロングインタビュー】捨てられたものに命を吹き込む、再生のアート――キム・キョンファさんに聞く(聞き手:北原恵)

2024/12/27

2024年11月発売『エトセトラVOL.12』北原恵「アート・アクティヴィズム(第100回)」で取り上げた韓国・釜山で活動するアーティスト、キム・キョンファ。誌面では、釜山ビエンナーレに出品された《調律(Harmony)》などを中心に、その活動内容や作品のごく一部しか紹介できなかった。WEBでは、労働の価値と制度的な不平等に対する問いから、民主化運動の歴史までを精力的に表現する同作家へのロングインタビューを掲載する。

 

(1)釜山ビエンナーレ2024の出品作

北原:1週間前に初めてお会いしたばかりなのに、金さんのお仕事を知れば知るほど感動しています。今日のインタビューが載る「アートアクティヴィズム」という連載は、今回ちょうど100回目に当たるんです。金さんのことを紹介できてとても嬉しいです。

アトリエのキム・キョンファ(北原恵撮影)

最初に釜山ビエンナーレの出品作についてお話をうかがい、次にこれまでの作品や、この前アトリエで見せていただいた作品も含めて特徴的なお仕事を紹介したいと思います。そして、金さんがこれまでどういうことをされてきたのか、大学時代を含めて、色んなことを聞かせてください。

それでは、さっそく、今回のビエンナーレの作品ですが。

キム・キョンファ(以下、金):今回釜山ビエンナーレに出品した《調律(Harmony)》は、古い韓服の生地や、染めた布を集め手縫いで繋いで作った作品です。普段は手縫いの作品だけでなく、様々な材料を用いています。韓服の生地を使って作品を作るのは、結構前からなんですが、これらの生地は、誰かが着ていたものです。最近は韓服がたくさん捨てられるので、そういう韓服の生地を使って作品を使ってきました。誰かからもらったり、集めたりして。

 

キム・キョンファ ≪調律≫2024年、円形直径3m(北原恵撮影)

北原:この作品の韓国語のタイトルは《調律(조율)》なんですが、どうして英語タイトル≪Harmony≫の訳の「調和」ではなく、「調律」なのでしょうか? キャプションでは、1992年にハン・ヨンエ(韓英愛)[1]の歌を使ったと書いてありました。どういう歌だったのか教えていただけますか?

:はい。今年は東学130周年になる年です。前から関心があったのですが、東学について集中的に勉強しながら、本作品を準備することになって。韓国には東学思想というのがありますが、一般的には東学農民運動、農民革命というふうに認識されていて、チョン・ボンジュン(全琫準)などで代表される闘争で語られます。調べてみたら、東学思想がとても素晴らしい思想だということが分かったんです。

それでその思想について勉強をする中で、ハン・ヨンエという歌手の「調律」という曲の歌詞が東学思想をよく説明していると思い、この作品名にしました。

北原:こういう歌詞ですね。

「花は知っている / 暖かい五月には花を咲かせなければならないと / 渡り鳥は知っている / 秋空になったら飛び立たなければならないと / 問題 何が問題なのか / 行き先も知らずただ走っていたんだ / 清らかだった私たちの心は / いつから真実に背を向けてきたのか / 眠るお天道さまよ もう起きてください / 昔の空の光のように 一度調律してください」

:ええ。ハン・ヨンエの歌は、若い時に聞いていて、その当時は単に歌が好きだっただけなんだけど。例えば「眠るお天道さま(하늘님)よ、もう起きてください」という歌詞があります。それは大衆音楽だけど、東学の思想をよく説明していると思いました。東学の神様は、客観的にどこかに存在するものではなく、我々各々が神様であり、私の中にいるその神様を呼び起こせという意味です。各自の主体性を目覚めさせ、互いに連帯し、共存するために戦いながら生きるべきだというのが東学の思想です。そして「調律」の歌詞にあるその神様の歌詞も同じような意味で書かれたと思いました。

この作品にある民画のモチーフは、百姓たちの願いや望みを象徴しています。作品の素材である韓服の生地は、誰かが着ていたものなので、私にとってはこれらの生地が、着ていた人々を象徴するものだし、たくさんの人々が着ていた布を使ってこの作品を作ったので、材料自体も、各々の人々の集まりだと。また、モチーフの花や生き物たちのイメージ自体も民画から持ってきたもので、それらの組み合わせが、私たちが生きる世の中だと思いました。

「調律」という言葉は、自助努力しながら、生き延びていかなければならないこの社会を新しく整える(調律する)必要がある、という意味で使いました。「ハーモニ」という単語でうまく表せているか分かりませんが、自分のことしか知らない、自分一人で生きなければならない今の世の中を変えていかなければならない、という意味を込めました。

北原:先日、光州に行ってきました。そして、9月に市立美術館で始まった東学130周年と光州抗争までのテーマを扱った展覧会「侍天與民」[2]のオープニングに偶然参加したんですが、すごく面白かったです。きっと「東学」の再評価があちこちで始まってるんですね。

ところで、今回のビエンナーレ会場では、《調律》のほか、《木綿の服を着た人々(무명 옷을 입은 사람들)》、《水葬された人々(수장된 사람들)》がありましたが、それぞれ別の作品なのでしょうか?それとも全体で何か一つのタイトルがあるのでしょうか?

 

キム・キョンファ ≪木綿服を着た人々≫(手前)/≪水葬された人々≫(奧)2024年、450×250cm(北原恵撮影)

:つながっている作品ですね。主題は違うけれど。結局は百姓たちの抑圧や支配から逃れるための闘争が東学から始まり、それが日帝時代の3・1独立運動やその後の民主化運動の精神へ繋がっていった。それで三つの作品が、歴史の流れの中でお互いに斜めに向かい合うように設置しました。

北原:じゃあ、それぞれ別の三つの作品が、一緒に展示されていると考えていいわけですね。私は《木綿の服を着た人々》と《水葬された人々》が、韓国の保導連盟事件をテーマとして制作されたことを知って、非常に驚くとともに衝撃を受けました。私自身その事件についてほとんど知らなかったので、この数日で勉強したばかりなのですが。

:解放後、韓国戦争勃発まで、大混乱の時期が続きました。北と南が単独政府を樹立させようとし、統一された祖国が作られず、列強による干渉の中で起こった問題が、保導連盟虐殺事件です。

南の政府を樹立しようとする側は、「保導連盟」という組織を作って、北に何か助力したり、同調したりした人々に対して、「(自首したら)我が国民として守ってあげるよ」と言って、加入させました。それで多くの人々が加入したんですが、北に実際に協力しなかった人々も保導連盟の組織に登録されたことが、歴史的に明らかになっています。数を合わせるためとか、名前を出したら米をあげるとかと言って。一般人は保導連盟が何なのか分からなかったので、多くの人々が加入したのですね。

そして、朝鮮戦争が1950年6月25日に勃発し、この年の7月から9月の間に、全国的におびただしい数の虐殺が行われました。国民保導連盟に加入していた人々を中心に、予備検束だと言って人々を釜山の刑務所に閉じ込めた。刑務所施設がない小さい村では、倉庫や学校などに閉じ込めて、裁判もせず、虐殺しました。

当時の釜山は、政府が避難先としていた都市だったじゃないですか。それで、釜山ではそのような虐殺があったとは思いもしなかったんです。ところが、数年前、同僚の作家たちと展示の準備のために調べてみたら、釜山もやはり、あちこちで虐殺が行われていたことがわかった。それで私たちは勉強して展覧会もやったんですけど、このテーマでは、あまりうまくいきませんでした。

北原:2018年、釜山の40階段文化館で開催された「民間人虐殺に関する報告」での展示のことですね?

:ええ。それで私は今回、ビエンナーレを通して、より多くの人々に見てもらいたいと思いました。鑑賞者たちは、この作品の見た目が美しいので、写真を撮ったりしますが、あとで主題が分かったとき、この事件に衝撃を受ける。そしてもう一度調べたり、作品をまた見に来たりする人が多いそうです。この事件について、釜山の人々はあまりにも知らない。この事件についてもっと関心を持つようになってほしいなと思って、このようなダイレクトなタイトルにしました。

北原:これは釜山の観光案内でもらった広報誌です。金さんの作品が表紙になっていて、みんな作品を映えスポットとして使っている様子が写っていますが、私もそのテーマとのギャップに非常にショックを受けました。保導連盟事件というのは、長くタブーだったと聞きましたが、今はタブーではないのですか?

 

釜山市の広報誌に載ったキム・キョンファの作品、『美好釜山』/『だから釜山20249月(北原恵撮影)

:韓国では民主化以降、金大中大統領の時期(1998-2003)には、これまで埋もれていた歴史を取材することが比較的自由になり、2005年には大韓民国の真実和解のための過去史整理委員会が作られました。それまで口に出すことができなかったこの事件について、調査を行なってきています。それで私も、釜山で長い間、取材をしていたキム・キジンさんという記者の本を通じて知るようになったんです。

真実和解委員会もずっと調査をしてはいます。第1次委員会のチームが終わり、今は、第2次調査チームが調査。でも現政府は、これまでの調査内容を覆すようなことをしているんですよ。この問題はずっとタブー視され、生き残った家族たちにまでも、アカだと烙印が貼られた。それで彼らは、就職も難しかったし、様々な社会的な活動の制約があった。でも調査で少しずつ歴史が明かされ、ご遺族が発言もできるようになり、慰霊祭も行い、改善されてきたと思っていたのに。現政府になってから、それがまた否定され、逆行する形となっています。

北原:そうなんですか。保導連盟虐殺事件については、自分でもっと勉強したいと思います。では、作品の話に戻らせてください。作品の中には美しい花や草、鳥などのモチーフが用いられていますが、そのイメージはどこから来ているのでしょう?

 

キム・キョンファ ≪調律≫部分、花鳥(北原恵撮影)

:先ほどの東学の《調律》という作品もそうですが、私はいつも民画の作品からイメージを得ています。これらの花や、草、鳥などは、韓国の民画に登場する自然の生き物で、それぞれが健康や幸福、富、などの意味を持ってるんです。つまり、民画自体が百姓たちの願いが込められたイメージだと。

ところで、《調律》の作品の色と、この作品《木綿の服を着た人々》とは色のトーンが違いますよね。《調律》が、韓服の生地を使って華やかな世の中を表現したとしたら、こちらの《木綿の服を着た人々》の方は、色をトーンダウンしています。古い布を使い、色を染める際に、釜山の虐殺現場を訪ねて、そこに生えている草で染色する。そうすることで、犠牲者たちの血、汗、涙を考えて染めました。

北原:≪水葬された人々≫は?

:《水葬された人々》という青色の作品ですが、みんな鳥と蝶々の形をしています。花もなく、鳥と蝶々だけが登場します。これらの鳥は全部絶滅危機の鳥たちです。

 

キム・キョンファ ≪水葬された人々≫部分、鳥蝶(北原恵撮影)

虐殺事件があった当時は、ひとつの村に同じ苗字を持つ人々が集まって住む、氏族共同体がほとんど。なので、その村で虐殺が起きると家が絶えてしまう家系も多かった。それで絶滅危惧種のイメージを用いました。また生き残った遺族たちの場合も家族・親族にも巻き込んで処罰する連座制を恐れ、自分らの痛みを語ることができなかったんです。鳥や蝶々は、みんな羽があって、海では住めないのですけれども、その翼を広げて、この海から羽ばたく形にして構成しました。

北原:制作にはどれくらいの時間がかかったのでしょうか?

:これらの3作品の制作には、今年1月から7月末まで、毎日かかりっきり。事件について勉強や現地訪問などの事前調査も含めるなら、もっとです。

北原:大変な労作ですね。

(2)これまでの作品:捨てられたものに命を吹きこむ

北原:次にこれまでの作品について伺ってもいいでしょうか?金さんのポートフォリオの説明を訳しながら、作品を全部拝見しました。そして、捨てられたものを、人の命も含めて、それを再生して蘇らせ、新しい命を吹き込むというところが、作品に共通していると思いました。また、隠された歴史――、虐殺の歴史とか、4.3事件とか、民主化運動の歴史においても、英雄を讃えるのではなく、無名の人への愛情、共感というのがすごく作品から伝わってきました。

本当は全部の作品についてうかがいたいのですが、特徴的な作品だけに絞ります。最近の作品には、大きな卵がよく登場しますよね。たとえば、多大浦の海を臨む丘の上に設置された≪自由の可能性≫(2022年)は、大きな鳥の巣の卵がすごく美しいです。卵は捨てられた漁業用発泡スチロールで作られたとか。
あるいは、《海が聞かせてくれる物語》(2021年)。海辺に巨大な卵が置かれています。この卵は、螺鈿から作られていますが。

 

キム・キョンファ ≪自由の可能性≫ 2022年 漁業用廃発泡スチロール、ガラス(キム・キョンファさん提供)
キム・キョンファ ≪海が聞かせてくれる物語≫ 2021年 300×220×220cm、日光海水浴場(キム・キョンファさん提供)

:そうですね。螺鈿といっても、古い箪笥の螺鈿を材料として使っているんですよ。螺鈿は、海から来たもの、海が育て上げたものでしょ。それを人々が使って、宝石のように、家具に貼り付けて使う。ものすごい労働と技術で作られたのに、流行が変わると、たくさん捨てられますよね。大切なものをなぜ捨ててしまうのだろう。それでその螺鈿の古箪笥を活用しようと思ったんです。

 

アトリエで作業中の古螺鈿(北原恵撮影)
螺鈿で生き返ったネコ、アトリエで(北原恵撮影)

2021年の釜山での「海の芸術祭」では、生命の根源、人間の始まりについて考えてみました。卵は命を象徴する形。そこに貼り付いている螺鈿や人間も海から来た。この卵は垂直に立っているのではなく、やや陸地に向かっているでしょ。卵が、海から来た未知の生命が、人々に話しかけるような感じで設置しました。それでタイトルも、「海が聞かせてくれる物語」に。

北原:人々が耳を傾けるという意味ですか?

:海から来た卵が話かけているように設置し、人間もその話に耳を傾けるべきだと。人々は今ものすごい変化を経験していますが、そんな話とか、海にある神話みたいな話を、この卵が話しかけているように、作りました。それは、私たちも聞く準備をしなければならないという意味なんです。

北原:この作品はいまどこにあるのですか?

:大きいアトリエを持っている同僚の作家に預けています。

北原:誰でも見られるような場所に展示してほしいですね。すごく好きです。

さて、次の4・3の作品ですが。これはアトリエで見せていただきました。《4.3感慕如在圖(ガンモヨジェド)》の「感慕如在圖」について、あまりよく知らないのですが。

 

キム・キョンファ ≪43 感慕如何在圖≫2022年螺鈿箪笥、68×121×10.5㎝(キム・キョンファさん提供)

:古美術作品の中に、「感慕如在圖」という様式があります。昔は、祠堂を建てて、そこで法事を行なっていましたが、お金のない庶民たちには無理でした。そこで、代わりに絵に描いた祠堂をかけて法事をしたんです。「感慕如在圖」は、先祖を愛する気持ちから、法事をするという意味なので、私は自分が考える≪4・3感慕如在圖≫を作ったわけですね。

北原:それで、済州島の信仰の総本山である、 松堂本鄕堂(ソンダンボニャンダン)を模って、作品を作られた。ところで祭壇には色んなお供え物がありますが。真ん中に椿の花があって、あとどんなものがお供えしてあるのでしょうか。

:地域によってお供えは違いますが、済州のお供えを調べてみました。籠にあるのが白くて丸い「月餅(ダルトック)」という餅と、デコポンに似たハンラボンという果物、ロールケーキは済州島では貴重なのでそれと、オクトム(甘鯛)を供えました。

作品を制作したのは、実は、慰霊祭壇放火事件がきっかけです。済州島4・3公園の慰霊祭壇を誰か放火をしたのです。夜中に。幸い犯人は捕まりましたが、なぜ4・3の慰霊祭壇を放火することを思ったのか。その記事を見て、私ができる最大の貴重な材料を使って亡くなった方々へ祭壇を作ってさしあげたいと思いました。

北原:そうだったのですか。日本でも似たような事件が起こっています。

さて、次の作品《世界を広げてきた女たちの書物》も、すごく好きです。これもアトリエにあって。勉強したい女性や、女性に対する共感と愛情をすごく感じます。この作品は、捨てられた箪笥の引き出しの組み合わせで作っておられますが、どうしてですか?

 

キム・キョンファ ≪世界を広げてきた女たちの書物≫ 2021年 2600×1600cm、螺鈿箪笥、引き出し、ダンボール箱(キム・キョンファさん提供)
≪世界を広げてきた女たちの書物≫部分(北原恵撮影)

:民画のなかにチェッコリという様式があるじゃないですか。私も好きです。でも当時この民画を描いて、享受したのはほとんど男性儒学者たちだったと思います。それで女性たち、女性の学者はいなかったかなと。私が知っていたのは、許蘭雪軒(ホ・ナンソロン)、申師任堂(シン・サイムダン)程度でしたが、もっといるだろうと。

調べてみたら、朝鮮時代にも女学者たちがいた。彼女たちが書いた本がたくさん残っていたんです。その後、日帝時代にも、朝鮮戦争時にも、混乱して大変な時期にも、多くの女性たちが勉強して、本を書いていた。

それでそれらの本のタイトルをこのチェッコリに入れて。女性たちのための世界を開いてきた、女性たちのチェッコリなんです。特に、朝鮮時代の女学者は、男性たちが書けない、たとえば育児や、女同士で伝えられる知識をハングルで書いていました。男性儒学者たちは主に漢字で書いていて、庶民たちには読みにくい。でも女性たちは、ハングルで書いて広く読まれていたので、ハングルの普及にも役立ちました。

知識が独占されるのではなく、知識を共有する精神。女性の学者たちの活動のおかげです。それで、≪世界を広げてきた女たちの書物≫というタイトルに。

北原:じゃ、ここのある本は全部女性が書いた本なんですね?

:そうです。

北原:これらの本は、たしかダンボールで?

:ええ。そして、棚は全部、螺鈿の箪笥の引き出しです。引き出しは当時、重要なものを入れて保管していたじゃないですか。この作品を作る際に、形の違う引き出しを組み合わせて本棚にした。本は捨てられた段ボールを使って、箪笥に入れて、絵をかき、書物のタイトルを書きました。女学者たちの本のタイトルを。

北原:この作品を見て、真っ先にユン・ソクナム(尹錫男)さんの作品を思い出しました。捨てられたものに命を与える。捨てられた木切れに女性の顔や身体を描いたり、蘇らせるところとか。それから、韓国の権威的な伝統ではなく、人々の生活の中にあった民画とか、そういうものを再生させるというところでも、すごく共通するものがあると思いました。今回の釜山ビエンナーレでは、女性独立運動家たちの肖像画を出品されていて、本当に圧倒されました。

 

ユン・ソクナム 「女性独立運動家の肖像」シリーズ、2024年釜山ビエンナーレ出品。(北原恵撮影)

先日はユン・ソクナム先生を一番尊敬しているとおっしゃっていましたが。他に尊敬する作家はいますか?

:マリーナ・アブラモヴィッチも好きですね。

北原:あ、私も好きです。そうなんだ。じゃ、これまでの生活というか、これまでの人生について伺ってもよろしいでしょうか。

[追記] キム・キョンファさんのインタビューのあと、『帝国主義と闘った14人の朝鮮フェミニスト:独立運動を描きなおす』(花束書房、2024年)を読み始めた。2024釜山ビエンナーレにも出品されたユン・ソクナムさんのシリーズ「女性独立運動家の肖像」の絵を中心に、女性独立運動家たちのひとりひとりの人生が、鮮やかに蘇ってくるノンフィクションである。「私たちの敵は日本帝国主義と家父長制であり、私たちの目標は、その二重の抑圧に呻吟する朝鮮女性を解放することだった」(帯から)

特に、翻訳者のひとりである宋連玉さんのあとがきを、私は何度も読み返した。

1990年代末、韓国では極度の新自由主義的な経済・社会制度の改革が強いられた状況を説明したあと、宋は続ける――「このような状況を反映してか、女性史研究においても民族解放のために闘った女性たちよりも、性の平等を訴えた女性たちに照明が当てられた。マクロな構造よりミクロな断面に目が向けられたのである。1999年に羅蕙錫ナ・ヘソク記念事業会が結成される一方で、金マリアは後景に退いていった。・・・」(同書、p.253)――という指摘である。

まさに1990年代末から韓国の美術史研究者たちと交流を深めていた、私も含む日本のフェミニストたちの美術史研究と、今も続く「帝国のフェミニズム」に対する批判として、宋連玉さんの言葉は深く胸に突き刺さる。私自身、なにを周縁化し排除してきたのだろうか。

(3)これまでの人生:民主化運動と出会い直す

:私は、晋州(ジンジュ)で生まれ、翌年、釜山に引っ越しました。だから釜山が故郷みたいなものです。晋州には親戚がたくさんいますが、釜山でずっと育ちましたし、地元の仁済大学貿易学科に入りました。

1988年入学だったので、当時の学園民主化運動の雰囲気があり、私も学生運動に参加しました。卒業は2月なんですが、大学卒業前の12月に工場に入りました。1991年12月に靴の工場に入って、3年間働きました。

釜山にはその頃まで、大きな靴工場がありました。そこで、私は労働者になろう、労働運動をしようと思って。ミシンを習い、A級ミシン士になりました。ミシンにもC級、B級、A級がありますが、短時間になれるものではなく、大変なんです。3年でA級ミシン士になるには。仕事に明け暮れていた。結局、労働運動も何もできず。仕事ばかり3年間して、他のことは何もできなかった状況でした。その後、結婚し、あらためて美術を始め、慶星大学の美術学科に入りました。

北原:靴工場で3年間働いた時間というのが、金さんにとってどういう時間だったのか、うかがってもいいでしょうか?

:私が工場を辞めたという話を、実はあまりできなかった。なぜなら、やりたいことが何もできず、敗北感があったから。それで、その経験が何の意味を持つのかをあまり振り返ることができず、それについて話せませんでした。

その後、美大に入って。最初は洋画から始めていましたが、途中で立体造形に変えて、ものを作る方に関心が出てきて、頑張れるようになりました。制作にミシンを使ったりすると、それが上手なので、周りも不思議がっていました。私が話さなかったから。

北原:金槌やスパナなどの工具を、韓服の布に綿を詰めた作品ですね。

 

キム・キョンファ≪工具たち≫ 2005年 韓服布、綿(キム・キョンファさん提供)

:ええ。ところが、2017年にイ・ハニョル(李韓烈)記念館の「会いたい顔(보고 싶은 얼굴)」[3]展で展示をすることになって。初めて工場で働いていた話をしました。

北原:私もソウルで「会いたい顔」展を見て記事を[4]書いたことがあります。今回イ・ハニョル記念館のHPで、金さんのインタビュー記事を見つけました。この《今日の1日は烈士が生きていたかった明日(오늘 하루는 열사가 살고 싶었던 내일)》は、1991年、政府に抗議して焼身自殺したパク・スンヒさんという女性を描いておられますが。顔も全部、糸ですか?

 

キム・キョンファ ≪今日一日は烈士が生きたいと思った明日≫ 2017年 134×186cm、韓服にミシン縫い(キム・キョンファさん提供)

:はい。顔は全部ミシンで。赤い糸で。白い花は手縫いの裏面を使っているんです。その裏面の役割というのが、パク・スンヒ烈士の役割、犠牲だったと思いましたし、それがある意味、表なんですね。

私の釜山ビエンナーレの作品ですが、壁にくっつけず、裏が見えるように設置しました。手縫いというのは、下糸と上糸が合わさって作られるじゃないですか。それで表面だけでなく、裏の面や影も見れるように。人々は前の面ばかりを写真で撮りがちだけど、歩いてみて、普段あまり見ようとしなかったり、あまり考えてこなかった裏面を一緒に考えたりしていけたらいいなと。

 

2024釜山ビエンナーレ、キム・キョンファ出品作(北原恵撮影)

北原:鮮やかな色の花よりも、私には泥やシミのついた花であるとか、草花の作品がすごく心に沁みてくる感じです。ところで、この《今日の1日は烈士が生きていたかった明日》は、2017年制作。先ほど釜山の40階段文化館で展示された民間人虐殺の展覧会が2018年なので、私はこのイ・ハニョル記念館の展示が、金さんの転機になったのではないかと。

:その通りです。

北原:それまでも金さんは、捨てられたものとか、名もなき労働とか、そういうものへの共感を込めた作品を作っておられたのですが、このイ・ハニョル記念館の展示から具体的な歴史を探っていくことが加わったように思いました。

キム・キョンファ ≪野良猫たち≫2007-2008年 セメント(キム・キョンファさん提供)

キム・キョンファ ≪良い日(子孫/長寿)2014年 螺鈿、ダンボール(キム・キョンファさん提供)
キム・キョンファ ≪隠された労働≫2018光州ビエンナーレ(キム・キョンファさん提供)

:そうです。このパク・スンヒ烈士と、私が工場に行った時期が近くて。パク・スンヒ烈士を通して、当時私が何を考えていたか、なぜそうしたかなどを考えるようになりました。

北原:先日、釜山のアトリエにうかがった時は、インタビューをすることになるとは思ってなかったんです。でも、金さんが、ミシン工として工場で働いていたという話をされたとき、「あ、これはきちんと話を聞きたい」と思いました。それもパク・スンヒ烈士を英雄として描かずに、普通にどこにでもいる、身近な存在の女性として描くという金さんのインタビューを読んで、大切な視点だなと。

工場を辞めたあと美術の勉強を始めて、ソウル大の修士課程に入られた。2017年に卒業。ソウルで活動を続けようとは思わなかったのですか?

:私はただ釜山に帰りたかったんです。周りからもなぜ釜山に戻るのかと言われましたが、当然、釜山に家族もいるので、帰らなくちゃと。必ずしもソウルで活動しなければならないことはないと思いました。それで、結果的にはソウルでその後あまり展示することがなくなりました。

北原:日本では福岡・博多との交流[5]があるということを川浪千鶴さんから教えていただいて、金さんの作品やプロジェクトのHP[6]なども拝見しました。でも、これまで日本で大きく紹介される機会がなかったのはすごく残念です。釜山で美術活動をされていて、その魅力はなんでしょうか?

 

福岡-釜山のアーティスト交流「WATAGATA Arts Network」10周年記念展チラシ、福岡アジア美術館、2020年
キム・キョンファ ≪チェッコリ≫ 2018年 120×90m、使い捨てダンボールに彩色、WATAGATA Arts Network展(キム・キョンファさん提供)

:ソウルでは学校に通っていただけで、作品活動をしたわけじゃないので、比較は難しいですが。釜山の多くの作家たちは、ソウルに対する憧れがないわけではありません。もちろん、釜山で頑張りつつ、ソウルや海外でも展示をする作家もいますけど、若い作家ほど、ソウルに行きたがりますね。

私は2010年から釜山市中央洞の旧市街地にある「トタトガ[7]」という創作空間に入って、3年間過ごし、その時からずっとここにいます。多くの作家たちと交流もしてきたし、協同組合も作ってみたり、コミュニティ活動したり、約10年間頑張ってきました。それで、旧市街地の古い歴史や背景に関心が出てきた。釜山のここが、私は気に入っています。

トタトガは、釜山文化財団が運営するレジデンスの一つですが、建物を新しく建てて作家を住まわせるのではなく、旧市街地の空いている空間を借りて、そこに作家が入る。建物をリサイクルしてレジデンスにする活動です。

北原:釜山には金さんのような、女性美術家が色々いらっしゃると思いますが、何かネットワークとかがあるのでしょうか?

:協会まではないけど、周りの女性作家たちと交流をしています。

(4)今後の計画

北原:最後に、今後の予定。これからのどういう作品を作りたいか、教えてください。

:さっき見ていただいた旗竿の作業や、海の卵の作業など、釜山の物語を考えるプロジェクト。多大浦沒雲臺(タデポ・モルウンデ)のような、釜山の隠れた話や忘れられた歴史に関心を持っているので、継続して調べて作品化し、人々に知らせていきたいです。

それから釜山には加徳島(カドクド)という島がありますが、そこに新しい空港ができます。そこもたくさんの歴史の遺産があって、自然遺産もあるのに、それが無視され、覆われ、空港が入る予定なんですよ。それらに反対する声をあげ、記録する作業をしたいです。

ゆな:たとえば、加徳島にはどのような歴史遺産があるのでしょうか。

:加徳島は古代から人々が住んでいた土地です。今は、橋で繋がって、海底トンネルがあり、巨済島まで30〜40分あれば、行けます。昔は島でしたが、南の陸地が始まるところに位置し、海の軍事の要塞だった。それで、すでに日露戦争の時から日本軍がこの地域の重要性を知って、軍用地にしたため、住民たちは立ち退きさせられました。日本が太平洋戦争の時、洞窟も作って。朝鮮時代に作った倭城、日帝時代に作った要塞や、兵舎などが全部残っています。それが全部なくなるんです。空港で。

それから、日帝時代、要塞を作る時に立ち退きさせられた加徳島の住民たちが、解放後に戻ったのですが、土地はすでに国のものになっていました。日本軍の兵舎などに住んでいた住民たちは家を所有することはできず、使用料を払って住まなければならない。それが、また空港建設で追い出されることになるんです。

それに対する反対もあります。軍事的な用地になって、古い自然や椿の森などがたくさん、そのまま残っていたのですね。ですが、その山なども削って、海を埋めて空港を作るので、自然が壊されます。でもそのような話は、新空港を建てるにあたって何も議論されていません。

北原:必ず見にうかがいます。
金さんの作品を見ると、なぜ、どのように南北が分断され、朝鮮戦争が起こったのか、なぜ保導連盟事件が起こったのか。その歴史を考えると日本の植民地支配と加害責任という大きな問題に突き当たらざるを得ません。加徳島でもそれらの問題が凝縮されているように思いました。日本からの観客には、釜山ビエンナーレの今回の作品をきっかけとして美しい映えスポットとして見るのはいいですけれど、そこから関心を持ってほしい
です。

:私の作品をこのように深く見てくださり、聞いてくださった方は、ほぼ初めてです。とても感動しました。

北原:こちらこそ、本当にありがとうございました。

(2024年9月15日Zoomでインタビュー)
通訳・文字起こし:徐潤雅(日韓近現代美術史)

作品の図版使用を快く許可してくださったキム・キョンファさんに感謝いたします。本記事中の図版の無断使用はお控えください。

 

キム・キョンファ(김경화, Kyung hwa KIM, 金京和)


都市で捨てられたり、放置された素材を主に使用して、労働の価値と制度的な不平等に対する問いを込めたインスタレーションを主に行っている。最近参加した展示は、2024釜山ビエンナーレ「暗闇のなかで見ること」、釜山現代美術館企画展「これは釜山ではない-戦術的実践」(2024)、東學農民革命130周年記念展「悲願-長い旅の始まり」(2024)、釜山文化財団公共芸術支援事業「しょっぱいものたちのネットワーク」(2023)などがある。共感と協働を基盤に、釜山の旧市街地で多様な実験を行った経験から、さらに新たな可能性を模索している。

 

北原恵(きたはら・めぐみ)
大阪大学名誉教授。専門は表象文化論、美術史、ジェンダー論。女性アーティストや戦争画・国家表象を研究。著作に『アート・アクティヴィズム』『攪乱分子@境界』(インパクト出版会)、『アジアの女性身体はいかに描かれたか』編著(青弓社)他。1994年から「アート・アクティヴィズム」を連載中。

 

徐潤雅(ソ・ユナ)
画家・富山妙子に惹かれ、2010年に韓国から日本に留学。日韓美術史・交流史を研究。立命館大学ほか非常勤講師。共著に『対抗文化史冷戦期日本の表現と運動』(大阪大学出版会、2021年)。論文に「富山妙子における「 新しい芸術」 の模索 : 敗戦後から1960年代までを中心に」『東洋文化』(101, 東京大学東洋文化研究所、2021年)