記事を検索する
2023/10/11
2023年10月30日発売『小山さんノート』より、編者である小山さんノートワークショップのひとり、登久希子さんによる「はじめに」を公開します。公園でテント暮らしをしていた小山さんが遺した膨大な量のノート。そのノートを、ワークショップのメンバーたちがどのような思いで読み、どのように文字起こしが始まったか、どうぞまずは知ってください。
▶書誌ページはこちら
はじめにーー小山さんノートとワークショップ
登 久希子
「こやまさん」と呼ばれる女性がいる。小山さんは、都内の公園の「テント村」でテント暮らしをしていた。彼女が亡くなってから10年が経とうとしている。私たち「小山さんノートワークショップ」のメンバーは、小山さんが遺した膨大な量の書き物の文字起こしをする有志として集まり、かれこれもう8年以上活動をしている。
■小山さんノートワークショップ
小山さんが暮らしていた都内のテント村の住人だったいちむらみさこさんは、具合の悪くなった小山さんを助けるべく、テント村の外にも声をかけて「小山さんネットワーク」を作ろうとしていた。しかし、ほどなくして小山さんは亡くなってしまう。何十冊という小さなノートを遺して。公園暮らしの雨や湿気であまり保存状態のよくないノートも多い。小山さんの火葬の日、いちむらさんたちはそれらのノートも一緒に燃やしてしまおうと考えたが、1行読んで、これは残さないといけない、伝えないといけない、と強く思った。いちむらさんたちは、小山さんの一周忌に追悼展覧会を行い、ノートから文章を抜粋して作った小さな冊子を来た人に手渡した。そしてノートの文字起こし、データ化を一緒に行ってくれる人を募ることにした。
追悼展覧会などを通して小山さんのノートを知った人や、興味を持った人が文字起こしに定期的に関わるようになっていった。そしてだいたい毎月1回、主に週末の午後から夜にかけて集まり、一緒にノートとパソコンに向かうというワークショップのスタイルが定着した。合間にストレッチをしたり、おやつを食べたりしながら文字起こしをし、最後にはいつも持ち寄った色とりどりの夕飯を囲んで、その日読んだところの感想やお互いの近況などを話した。おいしいものを食べることが、私たちは大好きだった。ノートの記述からうかがうに、小山さんも。
手書き文字のデータ化だけならば、わざわざ集まって行う必要もない。なんならパソコンでほとんど自動的にできる機能もある。しかし、小山さんの書くものには、ひとりでは太刀打ちできない難しさがあった。ひとつは、小山さんは達筆すぎて、読みとるのに苦労する文字が多かったこと。ふたつ目は、小山さんがかなり独特の当て字を多用していたため、ひとりでそれらを読み解くのはほとんど不可能だったこと。そして何より、書かれている内容に三つ目の難しさがあった。小山さんのテント生活の記述は、あまりにも衝撃的だったり、悲しくつらいものだったり、あるいは面白すぎたりする描写に満ちているから、「これは!」と思った箇所をただちに誰かと共有したくなる。ワークショップのメンバーは、文字起こしをしながら、それぞれの視点や経験から、小山さんに共感したり、小山さんという人を想像したり、翻って自分自身を見つめ直したりしていたのだと思う。
メンバーのなかで生きている小山さんと会ったことがあるのは二人だけだった。他のメンバーは小山さんの姿を見たことも声を聞いたこともなかったけれど、そんなことは私たちにとってあまり重要ではなかった。二人の話やノートの内容から小山さんのいでたちなどを想像して、それぞれの小山さんが立ち上がる。私たちはノートを通して、小山さんをとても身近に感じるようになっていった。
■ノートから立ち上がるもの/こと
ワークショップでは、文字起こしだけでなく、フィールドワークや路上での朗読、座談会をしてみたりもした。小山さんがよく立ち寄ったらしい神社や常連だったと思われる喫茶店などをメンバーとともに訪れると、ノートに書かれていた状況がちがった解像度で見えてくる。また、座談会は、文字起こしを進めるなかで各自が考えてきたことを改めて語り、共有する機会となった。日が落ちて薄暗くなってくる屋外で小山さんノートの一節を朗読してみるのは、小山さんがそこに現れたかのような、自分の声が自分の声ではなくなるかのような不思議な体験だった。ときどき、足をとめて耳を傾けてくれる人もいた。
思えば、朗読以外はいずれも、ワークショップのメンバーだけで行われたもので、「小山さん」をどのようにメンバー以外にひらいていくのかは、つねに私たちにとって試行錯誤が必要な問題だったのだと思う。小山さんのノート、それに関わる私たち。伝え方を間違ってしまうと、とんでもない方向で誤解されてしまうかもしれない。メンバーのバックグラウンドはさまざまだが、私たちは、小山さんに対するさまざまなレベルでの「共感」を共通項として持っていた。そして、その「共感」を私たちから広く外に向かってひらいていくことについて、逡巡していた。
■小山さんノートをひらく
ワークショップは、コロナ禍のもとでもオンラインでつづけられた。びっしりと文字が書き込まれたA6サイズのノートおよそ80冊をテキストデータにしてみると、A4サイズの用紙に3段組みで659ページもの量になった。私たちが確認できたのは1991年から2004年までに書かれたノートだが、実際にはもっと多くのノートが存在したようだ。小山さんが書いているとおり、公園暮らしでそれだけの量のノートを何年も保管しつづけるのは決して簡単なことではなかっただろう。
小山さんのノートを、いつかワークショップのメンバー以外の人にも読んでもらうことができたら、という思いは文字起こしをはじめた当初から私たちのなかにあった。ただ、そんな膨大な量の文章をそのまま世に出すのはあまり現実的でない。「出版」に際しては、なんらかの編集作業が必要になる。その作業はメンバーにとってものすごく難しい過程だった。そもそもほとんどのメンバーが、小山さんノートの全体を通して読んだことがなかった。だから659ページの原稿をひたすらみんなで読み込む必要があった。積み上げられた小山さんノートを前に文字起こしをしていたころの、果てしない作業の感覚を思いだす。そして、身を切る思いで抜粋した原稿に、それぞれが重要だと思う箇所や思い入れのある部分を追加したり、また他の部分を削除したりしながら、ノートに書かれた小山さんの生を、理解しきれない部分も含めて、どのように立ち上げることができるのか、話し合いが重ねられた。抜粋が恣意的になりすぎないように、小山さんのノートの全体の雰囲気が伝わるように。どれだけノートを読み込んでも、結局のところメンバーの誰も小山さん自身ではないし、小山さんの真意はわからない。それに、「真意」は本人ですら揺れていたり変化したりするかもしれない。そんなことを考えながら、綱渡りのように、抜粋作業は進められた。そして完成したのが本書である。
本書には、1991年から2004年までに書かれた小山さんノートからの抜粋が収められている。アパートに住んでいた頃から、公園に移り、本格的にテント暮らしをはじめる頃までの序章につづき、第1章から第6章まで、小山さんの哲学、テントにおける男性との共同生活、そこで受けた暴力、テントでのひとり暮らし、共同生活を送った男性の死とその後の極貧生活、夢や幻想などがおおよそ時系列に沿って展開する。しかし、回想による記述も多いため、編集を行った私たちとしては、どこから読んでもらってもよいと考えている。
また小山さんノートの本文に入る前に、いちむらさんが小山さんの最期の日々に関わった様子を記したエッセイを、そして本書の最後にはワークショップの各メンバーによるエッセイを収録した。
書くという行為と、そのための時間・空間をテント暮らしの日常の中で維持するのは並大抵のことではない。小山さんは、彼女が「フランス」や「イタリア」と呼ぶ喫茶店にやっとの思いでたどりつくと、コーヒー1杯を前に何時間もノートを書いたり、それを読み直したり、さらに書き加えたりしていた。何年も後に記述を足しているので、読んでいる私たちとしては、時間が行ったり来たり、タイムスリップするような感覚を覚えることも多かった。
小山さんは、ユーモアのある、どこか冷静な記述をとおして、自分自身をある意味でつきはなしてみたり、赦してみたりしながら、日々を生きつないでいたのではないかと思う。ノートに出てくるフランスへの旅やルーラという存在は、空想や妄想のようにもみえる。でも小山さんは現実をあきらめて「空想」に生きていたわけではない。それらの「妄想」は現実を生きるために小山さんが生み出したものであり、また小山さんに与えられたものだったのだ。それらを含めた現実を、小山さんは生きていた。ときに悲嘆に暮れることはあっても、ノートの中の小山さんは、常に何かの可能性や未来を信じていた。
小山さんノートは、決して簡単に読み進めることができるものではない。でも難解なものでもない。ひとりで読み進めることが難しいときは、この本を持って、小山さんのように、喫茶店など人の気配のあるところに、外の景色が見えるところに行ってみるのもよいかもしれない。
エトセトラニュース