記事を検索する
2026/9/16

日本・韓国社会のなかで在日朝鮮人3世として抱かざるを得なかった違和感、個人的な経験と大きな「国家」たちのはざまで生まれる葛藤、癒されないトラウマ、ときに喜びや希望。入管運動や関東大震災朝鮮人虐殺の記憶継承に取り組み、クィアのアーティスト/アクティビストとして活動するuhiさんによる連載です。第7回は、在日朝鮮人の心に深いトラウマの根を張った、とuhiさんが書く「帰国事業」について。日本の言論人が、9万人にものぼる在日朝鮮人が朝鮮民主主義人民共和国へ帰国した歴史である「帰国事業」の話題のときだけ、普段はざんざん無視してきた朝鮮人の人権を語ってきたことに、異議をとなえます。(文章内イラスト:uhi)
2016年に自分が書き残していた文章の中に、
こんな一節があった。
ユダヤ人とかイスラエルとかの話になって、母が平然と、傍観者のように言った。
「国がない国民っていうのは本当に不幸なことだよね」
北朝鮮という“国”に翻弄され続けてきた母はどんな立場からこの言葉を発したのだろう。
大学3年生の時で、どんな背景で書いたのか具体的に思い出せないのだが、
この時期の自分の頭の中の大部分を「ホロコースト」と「北朝鮮」が占めていたのは確かだ。
ユダヤ人に対する差別が引き起こした未曾有の歴史的大量殺戮に、朝鮮人の境遇を重ね合わせて考えようとしていた。大学ではホロコーストに関する授業がもちろんあって、授業の文献にユダヤ人の思想家の名前が頻繁に出てたり、映画上映会もあったりして、なんだか馴染みやすかったのだと思う。
同時に「帰国事業」に関しても、どうしてそんなことになったのだろう? と考えていた頃だった。そんな私の疑問に当時答えてくれたのが、大学の授業で観たヤン・ヨンヒ監督の『ディア・ピョンヤン』だった。あの頃は、授業で在日というテーマが扱われようものなら正直何でも嬉しくなってしまうくらいには純粋だったのだが、在日朝鮮人のある種タブーとなっている歴史も、日本社会でなら作品として光を当てることができるんだと感銘を受けた記憶がある。
「結局のところ、差別された被害者は権威を握ると加害者になり、人々を苦しめることになるんだ」そんな考えに行き着いた。ナチスによって迫害を受けたユダヤ人はイスラエルという国家をつくり、パレスチナ人を迫害する。それと同じように、日本帝国主義によって差別された朝鮮人も“北朝鮮” という国家をつくり、国民の自由を奪う。自分は加害者になりたくないから、国とか組織とはなるべく距離を取るようにしよう。
だけど、普段自分が日本社会に対して「在日コリアンの人権が!」と言っているんだから、自分が通った朝鮮学校と繋がりのある“北朝鮮” や総連の「人権侵害」と向き合わないのもずるい。
在日朝鮮人自身でさえ朝鮮学校や総連から離れていくのは、もちろん日本の差別の影響が大きい。
しかし、帰国事業が在日朝鮮人に残した組織や国家に対する失望も、あまりに大きかったのではないかと思っていた。
・・・・・
「帰国事業」の歴史は、在日朝鮮人の心に、深いトラウマの根を張っている。
ゆえに、極めてセンシティブな話題である。
日本の植民地支配責任について見解が一致しても、帰国事業のことになると同じ在日朝鮮人でも立場は大きく分かれてしまう。
「帰国事業」(*1) とは、1958年から1980年代にかけて、9万人にものぼる在日朝鮮人が、当時「地上の楽園」と言われていた朝鮮民主主義人民共和国へ帰国した歴史をいう。日本赤十字が仲介役となり、日本政府・北朝鮮政府・朝鮮総連がアクターとなって、この事業を推し進めた。戦後の在日朝鮮人は日本国籍を剥奪され、高い失業率と劣悪な住居環境の中で、社会保障もなくほとんどが貧困に苦しんでいた。もちろんそれは日本の植民地政策と戦後の朝鮮人差別に起因している。日本政府は朝鮮人を「厄介払い」したかった。そんな時に、総連が「祖国に行けば、食べるものも仕事も家も医療も一切困らない」と組織的に宣伝し、多くがそれを信じた。北朝鮮は在日朝鮮人を国家建設の労働力として受け入れたかった。しかし、帰国した人たちから届く手紙は「来るな」「物や金を送ってくれ」という内容だった。帰国した親族をもつ在日朝鮮人は北朝鮮に仕送りを続けるが、親族に会えない苦悩とキリのない連絡に精神が苛まれていった。
……というのが、私が耳にタコができるほど聞いてきた「帰国事業」の大まかな語りである。
そしてその度に、何も言えなくなる自分がいた。
高校無償化排除問題と同様に、“北朝鮮” が絡んでくるとどう語ればいいのかもわからず、語ることに自信がなかったのだ。そして、帰国事業に関しての方が遥かにハードルが高かった。
なぜなら、批判をしているのは日本人だけでない、そこに在日朝鮮人「当事者の声」があったからだ。
いかに多くの無垢な在日朝鮮人たちが “北朝鮮” や総連に「騙された」か。それだけではない、自分たちが総連活動家として、幹部として、いかに「騙してしまった」か。
“戦後” の帰国事業に関しては自分たちも責任が問われているのだ。
自分たちも「自発的」に運動を展開した後悔の念、
自分たちも「加担した」という懺悔の念、
そして帰国した親族に仕送りを続けられなくなり「見放した」という贖罪の念……
在日一世からの「恨(ハン)」(*2) が日帝の植民地支配の記憶から生まれたとしたら、
在日二世の「恨」はこの帰国事業の記憶にも接続されているのだろう。
あらゆる自責の念が行き場をなくした「恨」となって、
今でも在日朝鮮人の運命に重くのしかかっている。
しかし、このままの語りで本当にいいのだろうか。
「帰らなければよかった」という帰国者の悲痛な声は、日本が外国人政策で同じ過ちを繰り返さないためと見せかけて (*3)、
“北朝鮮” の人権侵害を強調するための「素材」にされている節があるように感じてしまうのは、気のせいだろうか。
「当事者の声」を聴いて、それがどのような歴史の中にあったのかという語り、ナラティブを形成するのは、当事者ではなく周囲——特に日本人ジャーナリストや研究者など言論人——の責任だと私は思うし、今その責任の重さが一層問われて然るべき時がそろそろ来たのではないか。
私は問いたい。
「帰国事業」の話になった時だけ、朝鮮人の「人権」に前のめりになる言説によって、
日本の植民地支配責任が矮小化されているのではないか。

・・・・・
帰国事業が始まった当時の日本社会の雰囲気は、どのようなものだったのだろう。
当時から対立的な立場をとっている『朝日新聞』と『産経新聞』の報道を見ると、論調は共に「人権」「人道」という概念が出発点となっていたという。(*4)
1990年代に生まれた私の感覚でいうと、日本政府の在日朝鮮人差別政策に反対すべき日本の左派が相当の熱量で「帰国」を支持していたらしいことにまず驚いたのだが、一歩立ち止まって考えてみれば、日本の戦争責任の贖罪の意識から祖国に戻りたい在日朝鮮人を応援したというのは、まぁ理解はできる。しかし、朝鮮人や外国人差別を煽動する右派までもが「人権」という美辞麗句を使うのは、どういうことだったのか。
そしてあんなにも在日朝鮮人の権利を蔑ろにしてきた日本政府も「在日朝鮮人の北朝鮮帰還問題は、基本的人権に基づく住居地選択の自由という国際通念に基づいて処理する」と、1959年2月に閣議了解を決定している。(*5)
政府レベルでも民間レベルでも、こんなに左派と右派の利害が一致した歴史は、後にも先にもこの “北朝鮮” 帰国事業だけだったのではないか。
国際法学者の阿部浩己氏は、「国際人権の物語は国連の誕生とともに始まる」と言う。
何百年も前から続いた白人による黒人の奴隷取引・先住民族のジェノサイド・そして日本軍のアジアでの数々の蛮行など植民地主義に基づく暴力は、「国際社会」にとって注目される対象とはされてこなかったにもかかわらず、第三世界ではないヨーロッパにおいてユダヤ人の大虐殺が起こった時に初めて道徳的な憤りや困惑が噴出したのだ。なぜなら、帝国主義による植民地支配こそが、被支配国の「野蛮」を「文明」化するものだったからである。第三世界でないヨーロッパで起きたホロコーストは制御されなければならない白人の蛮行だった結果、「国際人権」という物語が構築されるようになってきた。そうして国連憲章に人権の理念が埋め込まれ、1948年に世界人権宣言が採択された。(*6)(*7)
そうすると、「ヨーロッパ(グローバルノース)は蛮行あふれる野蛮の地などではなく、国際社会を一貫してリードする善意溢れる救世主」で、「未開」の「弱者」である第三世界/グローバルサウスはその保護を待つ者という構図がつくられ、「人権」は国連機関の法実践を通し、社会正義のための<最終真理>として位置づけられる。(*8) 近代の歴史を語るに植民地構造は切り離せないにもかかわらず、その歴史と被害者の「人権」は後回しにされ、「人権」の普遍性・中立性が強調される。むしろ(西洋型)国民国家の内側における公権力と市民の関係を律するための「人権」として、その存在意義が発揮されてきたのだという。(*9)
つまり、「人権」という概念が脱植民地化されていないのだ。(*10)
1950年代の日本が脱植民地化を考えられるはずがないし、
残念ながら在日朝鮮人差別を温存している現在もなおそうである。
私にとって脱植民地化とは、少なくとも、帝国による植民地暴力の歴史と責任を語りから切り離さないことだ。
・・・・・
「帰国事業」に関する研究や出版が盛んになったのは、2000年代に入ってからである。(*11)
2000年代以降の書籍や論文を読んでいると、そのどれもが「誰が一番はじめに推進し出したか」「誰に責任が一番あるか」などを紐解くための、歴史事実の整理と利害関係の分析が行われていると私には見える。もちろん、人によってその立場や見解にはバラつきがあるのだが、私に共通して見えているのは「当事者」がいかに悲惨で絶望的な生活苦を強いられてきたか——すなわちいかに “北朝鮮” で自分の「人権」が奪われたかという当事者の語りを、調査者が21世紀以降の国際情勢の文脈を問うことなく、当時のまま再生産しているように私には見えている。つまり、「帰国事業」の何が嘘で正しかったか、のような単純な論じ方は、グローバルノースの資本主義体制が引き起こしている甚大な人権侵害問題を「普遍的」なものとして後景に追いやり、結局旧宗主国が旧植民地(出身者)を裁くという構図を生み出す。
グローバルノースの一員である日本の「人権」語りが
いかに「帰国事業」の植民地主義の問題を覆い隠しているか、考えてみたい。
・
まず一つ目に、「帰国事業」の記憶が、なぜか1950年代からしか始まらない、という問題がある。だいたいの語りでは、帰国事業前の日本の植民地支配の歴史的事実については簡単には触れられている。一方、特に日本人ジャーナリストや研究者が責任を問いたくてたまらない「帰国事業」の主体の前史はすっぽり抜けているか、強調されないのである。
たとえば、“北朝鮮” こと朝鮮民主主義人民共和国政府。1948年9月の建国に至るまでどのような過程があったのか。日帝の植民地支配からは解放されたものの、すぐ後に米ソがそれぞれ朝鮮南部と北部を占領、38°線を引く。統一を目指していた朝鮮人の活動はアメリカによって阻止され、南側だけで国連監視下の単独選挙が強行、1948年8月に大韓民国が樹立する。翌月に朝鮮民主主義人民共和国も樹立した後、同年12月の国連では大韓民国のみが朝鮮半島の合法政府だと決議された。国連決議によっていわゆるアメリカ率いる国際社会が韓国を支持する流れができる中で、1950年には米ソ代理戦争とも言われる朝鮮戦争が勃発。1953年の休戦までに朝鮮半島は焼け野原となり、犠牲者は200万にものぼると言われている (*12)。朝鮮半島に冷戦構造が都合よく持ち込まれて作られた南北分断は、日帝による植民地支配がなければ起こり得なかった。それどころか、国連軍の皮を被った米軍から日本の軍需企業に大量の発注がかかり、日本は朝鮮特需によって経済を再起させていった。
さらに、総連こと在日本朝鮮人総連合会。1955年に結成されるまでにどのような過程があったのか。1945年10月より、主に朝鮮人の帰国支援から始まった総連の前身である在日朝鮮人連盟(朝連)は全国の朝鮮学校の存在を通してGHQと日本政府によって大弾圧を受け、1949年に強制解散させられる[連載第4回に詳細は前述]。1951年に在日朝鮮統一民主戦線(民戦)として組織を再構築し、朝鮮戦争時にはアメリカの朝鮮半島侵略に反対を掲げるも、民戦は日本共産党の指導下に置かれていた。日本の革命のために朝鮮人を奉仕させたい日本人 (*13)と、朝鮮人との間に亀裂が入り、だから朝鮮民主主義人民共和国の公民化路線をとった総連の誕生につながっていく。日米からの弾圧のみならず、共闘していた日本人共産主義者との間に意識の差が生じるのも、植民地主義の産物だ。
歴史の語りの始点をどこに設定するかによって、その後の物語の決定づけも見方も大きく変わってくる。朝鮮民主主義人民共和国と総連が、空白のなかで突然誕生したわけではない歴史をまずは踏まえたい。
・
二つ目に、日朝国交正常化がされていないにもかかわらず、あたかも国家同士の立場が対等であるかのように「帰国事業」の主体の責任が語られることに疑問を感じる。国交がないということは、大前提として日本は朝鮮民主主義人民共和国に対して植民地清算も戦後処理も行っていない状態を意味する。これは経済協力なく旧植民地をさらなる貧困に追いやれるということでもある。
国交正常化の働きかけは1955年に初めて朝鮮側からあったという。帰国事業は在日朝鮮人の労働力確保が目的だったというよりも国交正常化のための手段だったのではないかという見方もあったり (*14)、帰国事業は日本政府と日本赤十字社による巧妙な策略だったという主張もあるが (*15)、菊池嘉晃などの研究者はそれらの根拠不足について指摘している (*16)。ただ、それらの主張が違っていたとしても、日本政府が植民地清算を行なっていない事実と私たちにとって日朝国交正常化が大事な課題であることに変わりはない。
それがなされていないことによって、在日朝鮮人同士の分断は深まってきた。日本と繋がれた帰国者と日本に身寄りのなかった帰国者同士はもちろん、現地で苦悩した帰国者と日本に残った在日朝鮮人のサバイバーズ・ギルト(*17)、そして総連を批判する/支持する在日朝鮮人同士。どんな立場であれ、深いトラウマが癒えないのは在日朝鮮人の側なのである。結局それによって喜ぶのは日本政府だ。「帰国事業」を論じる日本人ジャーナリストや研究者は、「北朝鮮の人権問題」から在日朝鮮人を救おうとするかのように、「当事者の声」を借りることによって、植民地主義に起因するはずのこの問題を結局在日朝鮮人に責任転嫁しているように私の目には映ってしまう。
・
三つ目の問題として、「帰国事業」が語られる際、当時の意思決定主体のジェンダー構造の問題が論点として上がっていないことに強烈な違和感を覚える。それは、この記憶のナラティブを決めやすい立場にいる複数人のジャーナリストや研究者の共通項が、なぜか1960年代生まれの日本人男性であるということとも無関係ではないだろう。当時、どの政府や組織も意思決定をしていたのは全員が男性だったと言っても疑いはない。自分たちの国の旧植民地出身者の「当事者の声」を意図的に取捨選択して、「帰国事業」のナラティブをつくってきた日本人男性が、当時の男性だらけの意思決定が帰国事業に与えた影響を考察したことがあるだろうか。もしくは、そのような記述や活動をどこかでしているのであれば、私が頑張って探さなくても済むくらい、年長の日本人男性という自身の権威的な立場性にライフワークとして向き合うことくらいしてほしい。
百歩譲って朝鮮と総連の責任を先に考えるとしたら、それは在日朝鮮人内にある家父長制の問題だろう。総連に関する告発本は、これまでに少なくない数が出版されてもいる。しかし、著者の在日朝鮮人男性本人たちが、事業を誇張宣伝したことなどについて総連を批判したり、自身の「人間としての」過ちを自己批判したとしても、組織内や家庭内における家父長制を批判したことがあったか。
帰国者の中には父親や夫の決断で人生が左右されたという人も多いだろう。ちなみに私の母は、総連活動家だったハラボジによって帰国を反対された。母はその理由を、植民地時代の一世だから家族が離れ離れになることが許せなかったんじゃない? と回想する。一方、日本に残ることになった母は、家庭内暴力や自身の結婚などハラボジによってこれまた人生を大きく左右されてもいる。帰国問題に際して、果たして母はハラボジの家父長的な家族主義によって「守られた」のだろうか。
なぜ私がこのような話をしているかというと、性差別によって声をあげられない在日朝鮮人は今でも多いのに、その傾向が昔はもっと強かっただろうことは容易に想像がつくからだ。(*17) 外部から総連を非難することは、組織内部で男尊女卑や性差別と闘うよりもたやすい。組織の内外を問わず、その構造や特権性に気づく在日朝鮮人の男性はまだまだ少ない状況だが、声を上げる女性や性的マイノリティが存在することを無視してはならない。
ただ大前提として、在日朝鮮人社会の近代的な家父長制も家族主義も結局は日本の植民地主義によって強化されたものであると、口を酸っぱくして私は言いたい。(*18) 脱植民地化のプロセスには、対象の時代の記憶のみならずそれを現在物語る者のジェンダーの問題意識が、何人かを問わず、そして性別を問わず必要不可欠であることを強調しておきたい。

・・・・・
日本は、
帰国事業において「人権」という概念を、
昔は朝鮮人を “北朝鮮” に追いやるために使い、
現在は “北朝鮮” を断罪するために使う。そして在日朝鮮人の口は塞がれる。
右翼が、拉致被害者の人権と朝鮮学校に関わる者の人権を天秤にかける構図にも似ている。
旧宗主国が旧植民地の「野蛮」な為政者による「人権」問題を論じる前に、果たすべき責任はないのだろうか。
本当は、日朝国交が正常化することによって解決に近づく問題はたくさんあるはずだ。しかし、「北朝鮮の人権問題」のセンセーショナルな発信は、その実現を余計に遠ざける世論を生む。対等な対話が不可能な状態を維持したい自民党や右派、そして左派を標榜した日本人のために、拉致被害者、帰国者、そして朝鮮学校すべての「日本の人権問題」が後退する。
さて、ホロコーストの歴史に朝鮮人の苦境を重ね合わせようとしていた、十年前の私の話に戻ろう。
ユダヤ人が大移動をした「約束の地」は、アラブ人が住んでいたパレスチナの土地だった。帝国によるバックアップと国連の決議によって、イスラエルはパレスチナ人を虐殺し、迫害し、追いやった。文化盗用も行い、不自由ない生活が保障された。イスラエル建国——すなわちパレスチナ人にとってのナクバ(大厄災)は、世界人権宣言の採択されたのと同じ年に起きた。
一方、在日朝鮮人が大移動をした「地上の楽園」は、日本人によって奪われた朝鮮人の土地だった。帝国から解放されたにもかかわらず、また別の帝国と国連軍が朝鮮戦争で多くの朝鮮人を虐殺し、特に北部の街を壊滅的に破壊した。そんな土地への移動だった。今なお朝鮮戦争は終わってはいない。
私は、黒人奴隷の歴史も、世界各国先住民族の存在も、パレスチナ人の存在も、事象としては知っていたはずだ。なのにホロコーストの方により大きな関心を寄せていたのは、私自身が欧米型自由民主主義体制の影響を多分に受けた日本や韓国社会、そこに内在されている人種主義を「自然に」引き受けてきたことと無関係ではないはずだ。
あの頃、朝鮮民主主義人民共和国が
パレスチナやアフリカ諸国、アジアなどの第三世界と連帯していたことも知っていたら、
悩み方も違っていただろうか、
ふとそう考えることがたまにある。
uhi(うひ)
1994年、東京生まれ。小学校は朝鮮学校、中高時代は韓国学校ですごす。かつて母が“帰国”を望んだ朝鮮民主主義人民共和国と父の憧れたアメリカの大きな存在を影に感じながら、日本・韓国社会の中で自分が在日朝鮮人3世として抱かざるを得なかった違和感を頼りに活動するクィア。ノンバイナリー。入管運動や関東大震災朝鮮人虐殺の記憶継承に取り組む。
ある在日朝鮮人のフェミニストが考えていること