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「ある在日朝鮮人のフェミニストが考えていること」第3回:時代の距離(uhi)

2026/4/15

ある在日朝鮮人のフェミニストが考えていること

日本・韓国社会のなかで在日朝鮮人3世として抱かざるを得なかった違和感、個人的な経験と大きな「国家」たちのはざまで生まれる葛藤、癒されないトラウマ、ときに喜びや希望。入管運動や関東大震災朝鮮人虐殺の記憶継承に取り組み、クィアのアーティスト/アクティビストとして活動するuhiさんによる連載です。第3回は、3o代のuhiさんが思いをはせる「過去」のこと。自分や誰かに起きたことは、「昔」としたとたんに「今」と切り離されてしまうけれども、誰かの過去の「いたみ」は続いているかもしれない。それぞれの世代、時代、時間を行き来しながら読んでみてほしいエッセイです。(文章内イラスト:uhi)

 

自分が30代になって、
もうすぐ2年が経とうとする。

他の人がどうかはわからないけど、
30代になってみると、
なんだか自分が今何歳なのかという意識よりも、
40代になるまでもう十年もないのか、という驚きの方が強い。
40代なんて、20代の頃はまだまだ先のことだと思っていたのに。
20代の頃とは比較できないくらいの日々の速さに、
毎日鈍く圧倒され続けている。

あの頃、これから自分を待ち受けている未来は、どこか遠いもののように感じていた。
なのに、30代というそんな「未来」の経過地点に至った現在、もう何年も経ったはずなのに、昨日のことのように近いと感じる記憶もある。
それは過去に残したままの癒えていない傷ほど、そう思う感度が強くなるのかもしれない。

・・・・・

私がそんな風に考えるようになったきっかけは、
自分より一回り以上歳上のイトコが結婚差別にあったという話を度々思い出すからである。
幼い頃にチラッと大人たちの会話から耳にしたことがあったけど、本人が私に話してくれたのは私が大学生になったばかりくらいの時だった。
自分はその話を当時真剣に受け止めつつも、イトコの世代だと別に珍しい話でもないし、何となく、もう「昔」の話として捉えていた節があるように思う。

私が話を聞いた20歳前後、
イトコは30代半ばか後半だったと思うが、
自分が同じ30代というステージに入る中で、
イトコにとってその記憶はどれくらい時間の距離感のある話だったのだろうと、最近よく思いを巡らす。

イトコが何歳の時にその差別に直面したのか具体的にはわからない。

私自身、自分の20代前半くらいまでのトラウマ的な出来事の記憶には何度も呑み込まれそうになっていたけど、たくさん人に聞いてもらったり、書いたりしてきたことによって、自分に何が起こったのか、どのように感じたのか、社会的な文脈からはどのような意味があるのかということを言語化し、認知し、自分の感情の観察をしてきて、「なんか前より大丈夫かも」と思えるくらいになっている。
「昔」とまでは思わないが、今でこそ「過去」の話として、少しずつ境界線を引けるようになってきた。
自分はたまたまそういうことができてなんとかなったタイプだったけど、自分のトラウマに言葉を与えていく過程を何度も経なければ、いつまでもその当時感じた「いたみ」とは距離が近いままだったのではないかと思う。

だからイトコにとっても、
全く「昔」の話ではなかったかもしれない。

というか、「昔」と言うと、どこか他人事のように感じるからそうなのかもしれない。
歴史として、映画とか教科書に封じ込められた「昔」の話のような。
「これからの時代」を生きる今のあなたには関係のないの話だから、気にしなくていいと。

・・・・・

私は親の語りの影響を無意識にたくさん受けているのだと思う。
「昔は差別が酷かった」という二世の語りを自分はどう受け止めるべきなのか、だいぶ悩んでいた。
「昔」という言葉で線を引くのは、過去に囚われて自由に動けなくなるよりは、経験しないで済むのなら経験しない方がいい、そういう思いの込められた優しさだったのだろうとも思う。でも優しさ以上に自分が感じたのは寂しさであった。
どこか遮断されているような、
自分だけ「現在(いま)」に取り残されたような、進めない感覚。
差別を気にしなくて済むように、足枷を取ろうとしてくれているようで、私にとってはずっと足枷になってきた言葉だった。

ただ、たしかに、自分で在日朝鮮人の通史を辿ってみても、本当に「昔は差別が酷かった」ようには感じた。
バラック小屋の朝鮮人部落はもちろん、警察による朝鮮学校の弾圧、朝鮮学校に行っていない在日の日本学校内でのいじめ、小松川事件や金嬉老事件なんかはその時代、在日朝鮮人の貧困の最たるものを物語る象徴的な事件であっただろう。
制度の面でも、外国人登録書の常時携帯義務、役所での外登更新時の指紋押捺、国民健康保険・国民年金への加入や様々な社会福祉サービス、公務員試験を受けることを制限してきた国籍条項があった。(*)

植民地時代に形成された偏見はもちろん、このような社会制度によっても在日朝鮮人・韓国人に対する「チョーセンジン」という偏見は下支えされていたので、就職差別や結婚差別と挙げたらキリがない。

このような差別に対し生活の権利闘争を在日朝鮮人や日本の市民が繰り広げることによって、実際に1980年代には社会保障関連制度の国籍要件がなくなり、1991年には指紋押捺制度も廃止されるなどした。

同時に戦後補償に関する世論も盛り上がっていった。1991年に日本軍性奴隷制のサバイバーである金学順(キム・ハクスン)さんが日本軍「慰安婦」被害を名乗り出たことや、1994年には当時の社会党から首相が誕生したことからも、時代の雰囲気が明らかに変わっていたのだと想像する。この時期に日本の市民運動も勢いをつけ、日本各地で強制労働の犠牲となった朝鮮人追悼碑の建立運動も展開していく。

本当に、1990年代は時代の転換期だったのだと思う。
私は1994年生まれで、物心がついてきたのが2000年代だったが、その頃にも日韓ワールドカップや韓流ブームが盛り上がりを見せていた。

問題が可視化され、問題が問題として認識され、それを変えていこうという機運があった。交流と友好を深めていこうという機運が。こういう、少しずつ、だんだん変わっていくという社会的な雰囲気があったのだと思う。
だから私が20代になる頃には時代の流れは変わって、「昔は差別が酷かった」から一変、そうした「差別はなくなる」だろうと。
日本人と同じように「普通」に生活ができるだろうと。

うちの親は運動に関わっていたわけではないが、日常的に自らが「チョーセンジン」だという眼差しを向けられてくる中で、時代の変化を雰囲気として体感するものは多かったのではないかと思う。

実際幼い頃、自分が接する日本人は大概優しくしてくれて、「朝鮮人だから」という理由で暴言を吐かれたり石を投げられるなどのわかりやすい差別にも遭ったことがなかったので、私も受け売りのように、昔に比べると「差別はなくなった」のだから、と自分で言い聞かせていた。

これからの時代、出身や名前で弾かれる就職差別も、結婚差別も少なくなっていくのだから。

・・・・・

百歩譲って、自分以降のこれからの時代、
「差別はなくなった」と思えたとしよう。

ただ、自分以降の世代が仮にそうだったとしても、そういう差別を受けていた上の世代が「これからの時代」に急に消えていなくなるわけではない。癒えないトラウマを抱えたまま「これからの時代」を共に生きている人たちなのだ。そういう人たちが「いたみ」を感じている限り、「差別はなくなった」とは決して言えない。

私が在日朝鮮人をはじめ様々なマイノリティの証言や物語に触れてくる中でよく耳にしてきたのは、やはり何年も、何十年も、語ることができなかった、という言葉である。

自分の中で特に印象に残っているのは、70年もの間自身の被爆と出自を隠してきた李鐘根(イ・ジョングン)さんのこと。2010年代、80代にしてようやく本名を名乗り、亡くなるまでの晩年証言活動を続けた、広島の在日朝鮮人二世だ。
一世、二世には「よくある話」と片付けてしまうこともできるが、
李さんの写真がとても印象的だったゆえに一人の人間として、自分の人生にその存在が立ち現れた。別に実際に会ったわけでもないし、ネット上で記事を読んだだけであるのに。(*2)

関東大震災時の虐殺を生き延びた曹仁承(チョ・インスン)さんが、映画《隠された爪跡》(呉充功監督/1983)の中で自身の体験を語っていた時の声も、自分の胸に刻まれている。悪夢にうなされ、家族にも話すことのできなかった恐怖を、1923年から約60年が経って語っていた。当時の虐殺を目撃証言した日本人と握手を交わした際に流していた曹さんの涙を、忘れることができない。

日本軍性奴隷制の被害に遭った裵奉奇(ペ・ポンギ)さん、金学順(キム・ハクスン)さん、金福童(キム・ボクトン)さんをはじめとするたくさんの朝鮮人が、約半世紀の時を経て、自身の体験を語り始めた。映画《オレの心は負けてない》の中で、あれだけ陽気でお茶目で力強く振る舞っていた宋神道(ソン・シンド)さんも、初めは名乗り出ることを頑なに拒んでいた。あんなに壮絶で凄惨な体験をしたのに、それぞれが見せる日常の中の笑顔や活動する中での闘志にどんな想いが詰まっていたのだろうか。

済州島での大虐殺4.3事件のサバイバーもそうだし、沖縄戦、その中での集団強制死の記憶に長い間口を閉ざされてきたサバイバーの証言もそうだ。被差別部落出身者も、アイヌもそうである。みんな口を揃えて「語れなかった」と語る。社会の中で、タブーとされる。

何十年、半世紀以上という時の重みを、私は考えても考えきれないし、こういうマイノリティが数えきれないほど多くいた。語れずに亡くなっていった人がきっとたくさんいたことに私は何度も気付かされてきたつもりだったのに、「昔」の話として、自分とはどこか遠い感覚になっていたのはなぜなのだろう。

何年とか何十年とか、目に見える数字に惑わされていたのかもしれない。

でも同時に、自分が経験していないことを、同じマイノリティ属性だからということであたかも自分のことのように話したり、その体験者の怒りや悔しさ、辛さを自身に憑依させたように自分が語るのも何か違うと思っていた。だからこそ、自分の経験とは別のものとして、ハルモニ(祖母)・ハラボジ(祖父)たちが生きた時代を少しでも想像できるように勉強して、証言に耳を傾けるということは自分なりの敬意のつもりだった。それは20代の頃、自分なりに「昔」の話に近づこうとするためにできる精一杯のことで、それが無駄だったとも不必要なことだったとも思わない。

ただ、私にとってはそれが、ハルモニ・ハラボジたち、オモニ(母)・アボジ(父)たちが体験した「昔」の話に聞こえても、その人たちはハルモニハラボジ・オモニアボジである以前に一人の人間であったのであって、自身の人生として見た時に決して「昔」の話ではなかったかもしれないこと。

若い頃に深く刻み込まれたトラウマを、何十年も一人胸の内にしまったまま、どれだけ昨日のことのように語っていただろう。半世紀以上が経っても、その人たちにとっては「遠くならない過去」を語っていたのかもしれない。時が経っても自分の心に影響を及ぼし続ける「現在」の話だった。

いくら世代が違ったとしても、直接会ったことがなかったとしても。
同じ時を生きている/た人たちの、紛れもない「現在」の話だったのだ。

その人たちが亡くなったとしても、
記録された「いたみ」は、私たちの世代が同じ思いをしないで済むようにと残され、誰かの「現在」をそっと支えてくれるものとしてずっと生き続ける。

・・・・・

時代はたしかに変わる。
実際に、この十年の間に世の中は変わった体感がある。
2017年から拡がった #metoo 運動、2019年には大学生を中心に性暴力に対し声を上げる Voice Up Japan の発信活動も注目を集め、「結婚の自由をすべての人に」同性婚訴訟が始まった。2020年頃からは映画演劇業界などでのハラスメントの告発がい相次いだ。2021年には名古屋入管に収容されていたDV被害者でもあるウィシュマ・サンダマリさんの死亡事件によって入管問題が世に認識され、2023年にはジャニーズ事務所の性加害問題が明るみにもなった。その年は関東大震災朝鮮人虐殺から100年の節目を迎えた年でもありながら、イスラエルによるパレスチナ人民族浄化と虐殺が本格化し、世界中のクィアやフェミニストがガザのために声をあげ始めた。コロナ禍を経て急速に広まったオンラインデモやアクティヴィズムの影響も、時代の変化に大きく作用しているだろう。

十年前、自分が大学生だった頃、授業でフェミニズムについて学術的なものとして触れることがあっても、それを自分の日常の中で話すのにはハードルがあった。フェミニストへの世間の偏見もまだまだ強く、自分がそう名乗るにものすごく意を決したことを憶えている。それはその前の時代、日本軍性奴隷性の問題を始めとし日本の反植民地主義・反天皇制に対し声を上げてきたフェミニストへの激しいバックラッシュがあったことと無縁ではないはずだ。それは2015年、安倍晋三元首相と韓国の朴槿恵元大統領が、サバイバーの声と問題の本質に向き合わないまま拙速に進めた「日韓合意」について報道が加熱した頃、当時大学生だった自分の精神衛生に間違いなく大きな影響を及ぼしていたからだ。

そのようなことを考えると、日本でもジェンダー・セクシュアリティ関連のことをベースに、少しずつ暴力や差別について語れる言葉がここ最近やっと自分に届いてきたのだと考える。十年前は「植民地」という言葉すら言うのもためらっていた私のあくまで個人的な肌感覚でしかないが、日本のフェミニズムの間でも植民地暴力への認識や意識が、主にパレスチナ人を虐殺し続けるイスラエルの問題を通して、少しずつではあるが見直されている側面も感じる。

しかし、時代は悪い意味で容易く変わってもいく。
世界的にも右派政権や政党が台頭し、脆弱な立場に立たされている者の人権をいつになく踏み躙っている。そのような人たちを「敵」や「脅威」と見なし恐怖を煽るようなパブリック・スピーチが常態化することによって、マジョリティだけが安心して暮らせるような社会になっている。
日本でもフェミニズムの盛り上がりが見える一方で、トランス差別を正当化するフェミニストの勢いも増しており、多くの女性・性的マイノリティも働いている性産業に対するフェミニストの偏見も根強くある。

こうやって差別や暴力はなくなることをやめないけど、
私が一世・二世の世代と何か変わったことがあるとすれば、自分たちの経験に少しずつ名前がつき、差別を差別だと、暴力を暴力だと認識できるようになってきたことなのかもしれない。

もちろん言葉にすぐにアクセスできず、未だ自分の記憶に蓋をしたまま語れない人もたくさんいる。

だけど言葉を手にすれば、それは差別だと自覚できるようになる。それはきっと辛い作業ではあるが、自分個人にだけ起きているものではないと気づくことができる。自分のせいではないことを知って、自分を責めなくてもいいようになる。時代のせいにする必要もなくなる。

時代のせいにすることを生きる術にするしかない時もあるかもしれない。
しかし、時代のせいにすることは、いつか時が解決するものだと他人に言うことは、その他人が経験している「現在」の形の差別を、いたみを、無化してしまう恐れがある。

差別の形というのは、その時その時の時代や環境の文脈によって、属性によって、似たようでいて実は違ったりするから、結局のところ他者の声を「聴く」ということがまずは大事になってくるのだろう。

イトコは、あの時どんな思いで私に話してくれたのか。

私に傷の記憶を分けてくれたあの人は、あの先輩は、あの親戚は、過去とのどんな距離感で話してくれたのか。

時の流れる感覚は歳を重ねるごとにスピードが上がっていくと思うから、
政治情勢に自身の立場が脅かされない限り、50代、60代、70代にだってあっという間になってしまうことは容易に想像がつく。

そう遠くない未来と、なかなか遠くならない過去の
どちらにも近い狭間に立たされているような30代の自分。

言葉が十分にあったとは言えない時代、
言葉が未だ行き届いていない現在、
一人耐え忍んだ/でいる誰かの「いたみ」に、今日はそっと寄り添いたい。

(*) 今でも公務員は地方自治体によって制限がある。
(*2) https://d4p.world/11909/

 

uhi(うひ) 
1994年、東京生まれ。小学校は朝鮮学校、中高時代は韓国学校ですごす。かつて母が“帰国”を望んだ朝鮮民主主義人民共和国と父の憧れたアメリカの大きな存在を影に感じながら、日本・韓国社会の中で自分が在日朝鮮人3世として抱かざるを得なかった違和感を頼りに活動するクィア。ノンバイナリー。入管運動や関東大震災朝鮮人虐殺の記憶継承に取り組む。