記事を検索する
2026/2/14

日本・韓国社会のなかで在日朝鮮人3世として抱かざるを得なかった違和感、個人的な経験と大きな「国家」たちのはざまで生まれる葛藤、癒されないトラウマ、ときに喜びや希望。入管運動や関東大震災朝鮮人虐殺の記憶継承に取り組み、クィアのアーティスト/アクティビストとして活動するuhiさんの新連載がスタートします。第1回は、これからこの連載をはじめるにあたり、自分を「物語」にすることへの逡巡が書かれています。日本社会において、在日である自分の「物語」が消費されるのではないかという危惧は、読む私たちに向けられています。何度もこの最初の文章に立ち返りながら、ともに連載を続けていくつもりです。(文章内イラスト:uhi)
「物語」というものがずっと恐いと思っていた。
自分が「語る」ということ。
自分が「語る」ことによって伴う責任、誰かに及ぶかもしれない影響、でも語らないことには癒やしてこれなかった過去のトラウマ。
何を語り、何を語らないか。
今はその言葉の意味を、前より自分の深いところで咀嚼している。
あの時「語る」術なんかなくて、
誰に語ればいいのかもわからなくて、
溜め込んでいたものが限界に達したことがあった。
「일본도 미국도 한국도 “북한”도 미워요!!」(*)
イルボンド ミグット ハングット “プッカン”ド ミウォヨ
——日本も米国も韓国も“北韓”も憎いです
自分の中に日ごとに渦巻いていくどうしようもない負の感情。
周りからは決してそんな風には見えていなかっただろう、
日常生活がままならなくなっていた20代前半。
学部を卒業してから日本社会に行く当てもなく、
とりあえず内部進学で時間を凌いだ大学院。
こんなボロボロの精神状態のまま授業についていくのが無理になっていて、
当時履修していた授業の先生のオフィスのドアを突然開けては、
泣き崩れながらあの言葉を吐き出した。
何度思い返してもその先生には申し訳ない気持ちになる。
アメリカ生活の長い韓国人の先生だった。
でも私はこんな感情は、日本語で日本人にも在日朝鮮人にも吐き出すことなんてできなかったと思う。
韓国語で韓国人にぶつけることが、どこかのタイミングで必要だったのかもしれない。
申し訳ないけど、先生にはサンドバッグになってもらったのだ。
どうして自分のこの身一つが、
国家たちの狭間に放り出されなければならなかったのか。

・・・
育ってきた環境も教育も、考えのベースとなるものが全く違う在日朝鮮人2世の両親のもとに生まれた。2000年代初め、私が小学校に上がろうとする頃。日本で生きていくのだから日本学校に行けばいい、チマチョゴリ切り裂き事件もあった、拉致問題やミサイルの報道の影響で差別を受けてほしくないと父が反対する中、私は都内の朝鮮学校に入学した。
学校では朝鮮文化や在日文化、学校の外ではたくさんの日本の文化やコンテンツを吸収しながら育った。当時押し寄せていた韓流ブームに母もハマったり、高学年の時には南北コリアと日本の子どもたちの絵画交流展で韓国にも行ったりした。ずっと日本の学校に通っていた父とは違い、日本で朝鮮大学校まで出た母は、かつて朝鮮民主主義人民共和国への「帰国」を望んでいた。今はあの時行かなくてよかったと思うと度々私に語りかけながら、母は私を朝鮮学校に送った。そうなのか、と思いながらも朝鮮学校で順風満帆に生活していた私は、小6の時初めて一人でアメリカに行かされることになった。
アメリカに住んでいる父方の伯母やいとこの元で、夏休みの間過ごしてこいと父親に言われ、いくら短期間で親戚がいると言っても行きたくもない国に一人で長時間フライトを耐えて行くことは、幼い自分にとって恐怖と不安でしかなかった。中高の間、父親への憎しみを抱えたまま夏休みを何度かアメリカで過ごしながらも、在日朝鮮人の伯母が何故若くしてアメリカに渡り、そこでも日本名を使い続けているのか、伯母の低い声と細いその背中をよく思い出しては「在日」とはなんなのかを考えるようになった。
アメリカで何度か夏を過ごした中高時代、日本での自分の生活環境もガラリと変わっていた。中学生になるタイミングで結局朝鮮学校を離れることになり、都内の韓国学校に行くことになった。在日社会にも朝鮮半島の南北分断状況が反映され、民族組織が総連と民団に大きく分かれており、朝鮮学校は総連系、韓国学校は民団系の学校となっている。同級生も、先生も、みんなが日本で生まれ育った在日朝鮮人しかいない朝鮮学校の環境とは打って変わって、韓国学校では親の仕事の都合などで日本に来た現地からの韓国人の子たちが大多数を占めていた。韓国人にとっては日本人としか見えない在日の自分が、思春期の頃ネイティブの韓国語や文化についていくのは本当に大変なことだった。そう思ってはいけないと思いながらも、朝鮮学校に通ったことが恥ずかしくなってしまった。劣った“北韓” の学校だと悪いイメージを持たれたらどうしよう。韓国学校の生活もそれなりに楽しんでいた面はもちろんあるが、内心は劣等感ばかりで、在日訛りの韓国語で見下されないように、自分の優位性を守るために、他の在日の友人に対し剥き出しにしてしまった競争心・差別心を今でも忘れることができない。
韓国の受験戦争の影響を色濃く受け、学歴で自分の価値が決まるようなピリピリした空気感を本当にバカバカしいと感じながらも、在日の自分が見返してやらなければの一心で、一生分と言っていいくらいの底力を出し勉強を頑張った。志望校の国際基督教大学に合格した時には、本当に心が解放された気分だった。
・・・
大学に入ってからはとにかくたくさんの友だちをつくり、受験のためだけに頑張っていた意味のない丸暗記の勉強ではなく、自由に好奇心のまま学ぶことの喜びや楽しさを知った。全てを割り切って、人生を再スタートさせたかった。
在日でも「普通」でいたい。
在日とか関係なく、楽しく生きたい。
日本社会でもないもっと広い国際社会の一員になりたい。
総連も民団も、民族組織とはあまり深く関わりたくない。
「民族」とか「国家」とかについていけない。
でも朝鮮学校での経験も朝鮮の文化も否定したくはない。
どうしても自分が「韓国人」だとは思えない。
中高時代のトラウマで韓国社会が怖くなっていた私にとって、
大学のコリアン・ディアスポラ的な集まりに心は救われていたが、
やはりそこでも、良い悪いではなく、韓国の影響が強かったのは事実であった。
私にとって、日本で生まれ育ちながらも、学歴的にはほぼ初めてと言っていい日本社会が、大学という空間だった。そこでつくった多くの友だちは、その時の私にとって「日本人」よりも前に「友だち」だった。大学で出会った友だちはみんな良い人だった。
「友だち」に自分のことをどう話していくか。
自分のことを話そうとすると、どうしても「在日」の話になってしまう。
そうすると自然に、「植民地」の話になってしまうけど、場を重くしてはならない。
テレビやネットでは「韓国人はいつまでも昔のことを」「反日」「北朝鮮ミサイル発射」「慰安婦」こんな言葉が毎日飛び交っている。
植民地の歴史のことなど理解されるのは日本社会ではアカデミアの世界だけだと感じていたから、自分にとって大学というのはものすごく大事な環境だった。とは言いつつ、在日に関するアカデミックな言論も様々な立場があるようで、一体何が正くてそうでないのか、誰の言葉を信じればいいのか、ずっと混乱していた。
だけど一般的な日本人はそんな事情知る由もないんだから、在日の細かい立場の話をしたって仕方ない。そもそも日本人には「植民地支配」のことすらちゃんと考える機会が義務教育でなされていないのだから、隣にいる私がそのきっかけにならなければ。
「友だち」を驚かせてしまわないように、いかに明るく、怒っていると見えないように、親しみやすく、真剣に伝えるか。
それでいていかに「かわいそう」に思われないように、「強く」主体性をもって語るか。
そして私の「在日」としてのアイデンティティは、朝鮮学校のこと抜きにしては語れない。
だから “北朝鮮”と歴史的に繋がりのある朝鮮学校をやばいと思われないように、
“北朝鮮”をちゃんと批判できる在日でいなければいけない。
「民族」とかナショナリズムに我を失っていると思われないように、自分の「個性」を主張しなければならない。
日本社会で、国際社会で、在日として生きるためにはどのように振る舞うのが「正解」なのか、日常的に常に神経を張り巡らし、相手の様子をみながら自分の言動を調節する。在日のことを知ってほしくて、「友だち」に話してみては言葉が詰まり消耗する。語ることが独りよがりに感じて、自分に嫌悪感が差し、たったこれだけのことでこんなんになってしまう自分のことが、何度恥ずかしいと思ったのかわからない。
みんな良い人なのに、みんな話をちゃんと聴いてくれているのに。
自分は気にしすぎだ。私がどんな過去を持っていようと、気にせず接してくれるのに。「一人の人間」として、尊重してくれているのに。大学生活は本当に楽しいし、みんな大好きだ。
なのにどうしてこんな気持ちになるのだろう。
私はどこまでが「個人」で、どこからが「在日」なのだろう。
どこまでが「在日」で、どこからが「個人」なのだろう。
いつしか自分の感情の浮き沈みをコントロールできなくなっていて、
学部を卒業した頃には正直もう言語喪失状態になっていた。
・・・
だから、大学院で、あの韓国人の先生の国際関係の授業は極め付けだったのだ。
英語開講の国際関係の授業。
国際関係なんて正直意図的に避けてきた分野なのに、
必須科目で取るしかなかった。
予想通り安全保障の「物語」の中に登場する主要なアクターたちは、当たり前だけど「国家」で、Japan とか the U.S. とか South Korea とか North Korea とか
全部私にとっては「主語」が大きすぎて、
私は一体どこに立てばいいのかと。
英語も十分にできなかった幼い頃、アメリカで何度も「Where are you from?」と訊かれた時の足場のない感覚。
他の学生たちが全く躓かないようなところで、
私は全く理解ができなくて、立ち竦んでしまう。
大きな「主語」が目に入ってくる度、
色んなトラウマが走馬灯のように脳裏を駆け巡って、
震えが止まらなくなる。
自分の英語の読解力の問題なのか?
絶対にそんな風には思われたくない。
英語力のせいにされて評価を下げられるなんて絶対に納得いかない。
でも本当に理解ができない。
どうしよう…
どうしよう…
頑張って文献を読もうとすればするほど、
心が引き千切られそうになって、
涙が溢れて文字が読めなくなって、
どうしようもなくなって、
どうしようもないことをわかってほしくて、
授業直前、先生のオフィスに駆け込んで自然にこぼれたのが、
「일본도 미국도 한국도 북한도 미워요!!」という言葉だった。
先生は衝撃を受けた顔をして、課題はできなくていいと言ってくれた。心底安堵した。
そう言うしかないような状況だったと思う。
でもたぶんこの人なら私の言葉の裏の意図を汲んでくれる、どこか微かにそう思っていた。
自分とは全く違う、韓国人で男性で大学教授という立場の人に自分の負の感情をぶつけられたことによって、自分の中で「韓国人」へのわだかまりがある程度溶解したような、大きな出来事だった。
授業の後、先生は詩を一編、
メールで送ってくれた。
その詩は、正直その時の自分の心情には全然当てはまらず、それよりもあんな風に突然大号泣してしまった恥ずかしさが勝りどんな内容だったかもはや覚えていないのだが、
詩を送ってくれたという事実が、いつまでも自分の心に静かに灯っている。

・・・
これが今の自分を形作った、
20代前半までの大まかな「物語」である。
この「物語」の中には入れられていない、親や友人知人との関係、様々な形の性被害、ジェンダー・セクシュアリティのこと、「全て」を語ろうとするともっと色んなことが錯綜してくる。
でも本当はきっと「全て」なんてなくて、
私たちとは「全て」から篩い落ちて残された部分の記憶で構成されていて、
私たちはそこからさらに選択し、「語り」を構築しなければならない。
そうして出来上がったのが、こんな、在日としての「物語」である。
自分がどんな人生を歩んできて、どんな傷を負い、乗り越えてきたのか/乗り越えられなかったのか、認知し、受け入れ、自分自身の存在を自分が認めてあげるために、絶対に必要だった「物語」。
自分の「物語」が一つ出来上がって、公に「語る」ということ。
在日という存在が一般社会の共通認識として十分に認知されていないこの日本社会において「日本語で語る」ということは、私の「物語」がいつでも日本の言論空間で在日の代表化され得る危険性を孕んでいる。特に社会運動の中では、国家や組織からは距離を置いた、大きな「物語」を拒否するような、とても個人的な独自の「物語」として、歓迎されたり利用されてしまう可能性も考える。
自分が複数の在日の声に良くも悪くも影響を受けてきた分、
どれだけ自分が「在日」として語る資格があるのか、その責任を常に考えてしまう。
日本語で語って、一体自分は誰に向けてこの「物語」を残したいのだろうか。
だから私は、自分の「物語」を語るのが本当に恐いし、畏れ多い。
自分にとっての良い記憶は、他の在日にとっては居心地の悪い記憶であることがある。
そんな声を、覆い被してしまうことにならないか。
そういう思いが常にありながらもなお自分の「物語」を語るのは、
他者の声を、私は代弁できないからだ。
あくまでも私は、自分の経験からしか出発することができないのである。
私たちはすでに、この国や大きな組織が規定する大きな「物語」の中に生きている。自分がそれに賛同しようが、まいが、そもそも気づいてもいないのに、どれかに自動的に呑み込まれるのは強制だ。大きな「物語」からこぼれ落ちる者が必ずいる。自分が、日本にもアメリカにも韓国にも “北朝鮮”にも当てはまらなかった頃の息のできなさ。そういうものをひとつひとつ掬い取りながらも、複数の大きな「物語」を全て対等なものとして見なし、帝国たちによって創られ続けてきた不平等をとっぱらって「歴史を語る」ことには慎重になりたい。
だから、どれかに当てはまろうと当てはまらなかろうと、その大きな「物語」の中を耕していくような、無数の「物語」の一部になりたい。
自分が死なないために、誰かを殺さないために。
何を語り、何を語らないか。
「語る」ことによって、私は社会と何を約束できるだろうか。
語ることは、私が出会ってきた無数の社会との
果たされない約束のようなものである気がする。
自分の語る「物語」を、自分の「全て」にさせないために。
出会っていくべき無数の悦びや、葛藤や、後悔や、闘いが、
まだまだ私を待ち望んでいて、
そんな日常の旅を続けるために、
在日朝鮮人でフェミニストの自分が考えていることを
これから少しずつ書き留めていこうと思う。
(*) 日本社会および日本語の言論空間では、朝鮮民主主義人民共和国を「北朝鮮」と呼ぶのが一般的になっていますが、これは正式名称・略称ではありません。また、韓国社会/韓国語の言論空間で一般的に使用される「북한(プッカン)」は直訳すると「北韓」となり、日本語における「北朝鮮」と似たような感覚で使用されています。英語の「North Korea」も然りです。かつて筆者自身がそのような言論空間で生きるしかなかったことをそのまま表すために、 “ ” 付きで北朝鮮や北韓という表現を本文中ではあえて使用しました。ちなみに筆者自身は、南北分断前の朝鮮の意味も込め、日本語では「朝鮮」と略すことが最近は多いです。
uhi(うひ)
1994年、東京生まれ。小学校は朝鮮学校、中高時代は韓国学校ですごす。かつて母が“帰国”を望んだ朝鮮民主主義人民共和国と父の憧れたアメリカの大きな存在を影に感じながら、日本・韓国社会の中で自分が在日朝鮮人3世として抱かざるを得なかった違和感を頼りに活動するクィア。ノンバイナリー。入管運動や関東大震災朝鮮人虐殺の記憶継承に取り組む。
ある在日朝鮮人のフェミニストが考えていること