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2021/3/18
海外の熱きフェミニズム作品を私たちに紹介してくれる翻訳家たちは、お仕事以外にどんなフェミ本を読んでいるのだろう? 読書リレーエッセイの今回は、北欧語翻訳の枇谷玲子さんが、デンマーク作家のトーヴェ・ディトレウセンを紹介してくれます。
ヴァージニア・ウルフ(1882-1941)の「女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない」という言葉は余りにも有名だ。これはウルフが1929年『自分ひとりの部屋』で書いたものだ。
ウルフがその文章をしたためてから90年以上たつ今、英国から9000キロ以上離れた島国、日本で暮らす私も、彼女の言葉に共感して思わずぶんぶんうなずいてしまう。
私は夫と中学1年生の娘と幼稚園に通う4歳の息子と犬と暮らす、40歳の北欧語書籍翻訳者だ。3LDKのマンションに、『自分ひとりの部屋』はなく、リビングの端の小さなテーブルにパソコンを置き、子ども達が幼稚園、中学校に行っている間に仕事をする。質はもちろんスピードも求められる出版翻訳。仕事が終わらず、幼稚園から帰ってきた子どもをおもちゃで1人遊ばせたり、YouTubeでアニメを見せたりしながら、仕事せざるをえない日も多い。私が必死でパソコンに訳文を入力していると、子どもが、「ママ、遊んで」と言う。そんな日は、自分が悪い母親に思える。ワークライフ・バランスって難しい。
夕ご飯を終えるぐらいの時間帯に、夫が仕事から帰ってくる。私が子どもを寝かしつけして、さあ、もう一仕事とパソコンに向かう。シンクにまだお皿がたまっている。「納期だからごめんね」と私が言うと、夫は渋々お皿を洗ってくれるが、心なしか不機嫌に見える。皿洗いを終えた夫がテレビを見はじめ、笑い声を上げると、私はつい、いらいらしてしまう。
私たちはこうして日々、どちらがより楽しているか監視し合う。一緒に楽しく暮らしていこうと思って、結婚したはずなのに。
英国と海を挟んだお隣の国デンマークにも、先のウルフに類する言葉を遺した作家がいる。「億万長者と結婚するか、50歳になってから子どもを産めない限り、女性が作家としてものを書くのは難しい」こう書いたのは、トーヴェ・ディトレウセン。トーヴェも小さな子どもを抱えながら仕事をしていた。著作の中に、子どもがお腹が空いたと泣くまで、夢中でタイプライターを打つ場面が繰り返し出てくる。
女の子が詩人になれるわけがない
トーヴェは、デビュー作である詩集『少女の心』(1939年)、小説『子ども時代の通り』(1943年)、回顧録『子ども時代』(1967年)をはじめとした作品の中で、子ども時代のことを繰り返し書いた。それまで男性中心だったデンマーク文学の世界で、トーヴェのように子どもの目に映る世界を描いた大人向けの文学作品はほとんどなかった。またワーキングマザーの心情を書いた点でも、トーヴェ作品は画期的だった。1973年、56歳の時に出された詩集『丸い部屋』収録の『子ども』は、子どもに温かなまなざしを送る包容力ある大人のトーヴェと、孤独で危うく繊細な少女時代のトーヴェが同居したメランコリックで不思議な魅力に満ちた詩で、今でも多くの読者に愛されている。
子ども
私が愛するのは、大人から悪い子と呼ばれるような子ども。
誰にも好かれず、誰にも理解されない子。
うそをつく子ども、盗みを働く子ども、約束を破る子ども。
大人から怒られてばかりの子どもを、私は愛する。
罪悪感や深い孤独とは無縁な恵まれた子どもを、
私の心は愛しやしない。
トーヴェは1917年に、火夫の父親と主婦の母親の下、コペンハーゲンのヴェスタブローという労働階級の暮らす地域で生まれた。1800年代後半から何度も繰り返し行われてきたストライキの末、1918年、コペンハーゲンで8時間労働が導入されたが、実際のところ、すべての職業で、8時間労働が守られていたわけではなかった。火夫の仕事も、12時間労働がざらだった。父は本や詩が好きだったが、日々の生活に追われており、娘のトーヴェから、「大きくなったら詩人になりたい」という夢を聞かされると、こう言い放った。「女の子が詩人になれるわけがないだろう。大それた夢をみるんじゃない」
労働階級出身の女性作家
本を読むのが好きだったトーヴェは、高校進学を先生から勧められたが、両親は女の子を進学させるお金はない、勉強よりも家事を学ばせたいと反対。トーヴェは中学卒業と同時に、メイドの仕事に就かざるをえなかった。
回顧録『青春時代』(1967年)は、労働者階級出身の女性の視点から書かれていた点からも、人々に衝撃を与えると同時に熱烈に支持された。
またエプロンをして料理を作ったり、洗濯を干したりしている写真がメデイアで取り上げられたことで、労働者階級出身の女性作家の登場を世に印象づけた。労働階級の人々の購買意欲を特にそそり、軒並みベストセラーに。こうして彼女はデンマークの女性庶民文学の重い扉をこじ開けたのだ。
文学の世界に足を踏み入れるため、31歳年上の編集者と結婚
トーヴェはメイドの仕事をやめた後、印刷所で事務の仕事に就いた。そして、仕事の後、女友達と通っていたカフェ・バーで知り合った男性の紹介で、編集者ヴィゴー・F・ミュラーと知り合った。ヴィゴーは当時、詩人デビューの登竜門と言われていた文芸誌『野生の小麦』の編集者。トーヴェの『わが亡き子へ』という詩を文芸誌に載せてくれた。
その後1939年にトーヴェはヴィゴーの友人が営む小出版社から詩集『少女の心』でデビュー。翌年、ヴィゴーと結婚した。31歳も年上だったヴィゴーとの結婚生活は、回顧録『結婚/毒』(1971年)をはじめとした作品の中でつづられている。ヴィゴーは昼間銀行で働いて稼いだお金で文芸誌を刊行し、若い作家、詩人達を応援する心ある編集者だった。またトーヴェや同世代の若い作家同士議論し、互いにインスピレーションを得られる場所が必要だと考えたヴィゴーは、『若い芸術家達のクラブ』を創設。しかしトーヴェはそのクラブで知り合った詩人、ピート・ハインと不倫関係に陥り、そのことが原因で、1942年に離婚。
トーヴェは後にエッセイの中で、「ひょっとしたら詩人、作家として世に出る上で、ヴィゴー・F・ミュラーと結婚する必要は全くなかったのかもしれない。でも女の子が、男の人の力を借りずに、世に出られるとは誰からも教えてもらったことはなかったのだ」と書いている。
仕事と子育ての両立の困難
トーヴェはヴィゴーと離婚するまでに、さらに4つの詩集と1つの小説を出版。
しかしヴィゴーと離婚してすぐの1942年、もうヴィゴーに養ってもらえなくなったトーヴェが、新聞社に行き、10クローネで詩を買い取ってもらえた時の喜びが回顧録にみずみずしく描かれている。
1942年、エッベ・ムンクと再婚してからは、詩だけでなく新聞のコラムなども書いて原稿料を稼いだ。第一子を出産した1943年、小説『子ども時代の通り』を出版。翌年1944年には3冊の短編小説を出版。こうしてまだ大学生だったエッベと子どもを養った。しかし幼い子どもを抱え、働き続けるのは困難なことだったのだろう。よい母親でいなくてはという思いと、作家として大成したいという思いの間で引き裂かれそうになっていた。そんなトーヴェの思いをよそに、夫、エッベは、有名作家になりつつあったトーヴェのことをうらやましがり、酒に溺れるように。
トーヴェはエッセイの中で、自分が幸せを感じるのは、書いている時だけと述べる程、文章を書くのが好きだった。本は売れていたが、当人は文壇に認められたいと苦しんでいた。1930年代当時はモダニストの全盛期で、トーヴェのメランコリックな作風はモダニスト達から古くさいと批判されていたのだ。作家としてのトーヴェは非常に野心家で、もっと認められたいという思いを抱き続けた。
お悩み相談
エッベとうまくいっていなかったトーヴェは医師のカール・ルベアとの浮気に走り、離婚。1945~1950年までカールと結婚生活を送っている間、重いペチジン中毒に。1951~1973年までヴィクター・アンドレアセンと結婚したが、ヴィクターは愛人を作ってしまう。
このような波乱万丈の恋愛模様は、『永遠の三人』という詩にも、よくあらわれている。
この世には、私の人生を絶えず行き来する
二人の男がいる。
一人は私が愛する男で、
一人は私を愛する男。
一人は私の暗い心に宿る
夜の夢。
一人は私の心のドアのそばに立つが、
私は決して中に招き入れはしない。
(中略)
一人は血の歌のシャワーを浴び、
愛は清らかで自由なものと歌う。
一人は夢が藻屑と消えた
悲しみの日に、そばに佇む人。
女は皆、二人の男の間で
揺れ、清らかなまま愛される。
男と女が溶け合い、一つになれるのは
百年に一度だけ。
1956年、39歳で、雑誌『ファミリー・ジャーナル』でお悩み相談をはじめたトーヴェ。20年間で4000通以上の手紙に答えた。
詩『永遠の三人』の中で、2人の男の中で揺れる女性の心を描いたトーヴェだったが、5人の子どもを持つにも拘わらず、2人の子持ちの既婚男性を好きになったという女性読者からの相談に、こう冷たく答えたことも。「7人の子ども、2人の女と2人の男。幸福というのは、そこまで高い代償を払うほど価値のあるものではない。悪いことは言わない。そのままでいなさい」
トーヴェはフェミニストだったのか?
このようなコンサバティブな思想をも垣間見させたトーヴェを、フェミニストと呼べるのか、デンマークでこれまで疑問の声が上がってきた。しかし母親、妻が不倫したり、薬物中毒に陥ったりするのは、当時は考えられないことで、それゆえトーヴェ作品が女性の役割についての議論の題材にされてきた。
トーヴェは自らを70年代に特に盛んだった女性解放運動の一員と見なしていなかったようだ。著作の中で女性団体レッドストッキングで活動する女性達をうるさいブルドックと呼び、嫌悪をあらわにしたこともあった。しかしレッドストッキング運動の中心的役割を担い、後にトーヴェの伝記を書いたカーレン・シューベアは、トーヴェのことを、主婦の女性達がどんな問題を抱えているのかや、主婦の仕事がいかに重要か、女性も教育を受け、自分の力でお金を稼ぐ権利を持てるようになる重要性を繰り返し書くことで、女性達の個人の問題を社会共通の問題に変えた作家であるとしている。
ただし、トーヴェの作品は、政治的なイデオロギーを伝えるためのプロパガンダ的なものではなく、あくまで経済的な自立を望む個人の日常を描くことで、その感情、人間存在を、哲学的なまでに突き詰めたものだった。
「トーヴェは私だ」シンドローム
『毒/結婚』の新装版の前書きを書いた現代作家ドゥー・プラムベックは、10代の時にトーヴェの詩集でその孤独や人の愛し方に触れた際、トーヴェはまるで鏡にうつした自分のようだと衝撃を受け、そこから文学の世界にのめり込んでいった。トーヴェは生誕100年を過ぎた今でも、デンマークの人々を「トーヴェは私だ」シンドロームに陥らせている。
現在デンマークでは、第二次トーヴェ・ブームが起きている。
2016年王立劇場でトーヴェの人生をテーマにした舞台『トーヴェ! トーヴェ! トーヴェ!』が上映された。
『壊れるトーヴェ』という短編アニメも作成され、注目を集めている。
『毒/結婚』の英訳が2019年、英国ペンギン社から出され、ガーディアン紙などで絶賛され話題に。2011年1月にはアメリカでも出版され、NY Timesをはじめとする様々な媒体で次々に取り上げられている。「トーヴェは私だ」シンドロームは、世界に広まろうとしている。
枇谷玲子(ひたに・れいこ)
北欧語(デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語)翻訳者。1980年富山県生まれ。インゲ・クロー『ウッラの小さな抵抗』(文研出版)で翻訳家デビュー、以後、北欧の児童書・ミステリの翻訳・紹介を精力的に行っている。訳書に、ブーレグレーン他『北欧に学ぶ小さなフェミニストの本 』(岩崎書店)、ヨルダル他『ウーマン・イン・バトル 自由・平等・シスターフッド!』(合同出版)、マテアスダッテル 『北欧式パートナーシップのすすめ 愛すること、愛されること』(原書房)他。
「翻訳者たちのフェミニスト読書日記」