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2022/4/14
海外の熱きフェミニズム作品を私たちに紹介してくれる翻訳家たちは、どんなフェミ本を読んでいるのだろう? 読書リレーエッセイの今回は、韓国語翻訳の小山内園子さんが、「居場所」をテーマに描かれた韓国のマンガを紹介。
韓国で、DV被害者支援を行う相談員たちのカンファレンスに参加したことがある。「カンファレンス」とは、相談員同士が事例に基づいて対応を振り返り、今後のスキルアップに役立てる場である。……と書くと大変に行儀良く聞こえるが、時と場合とメンツによっては猛烈なつるし上げの席にもなるので、私のような翻訳と二足の草鞋を履いている不良社会福祉士にとっては、恐怖でしかない。
その日も、外国人研修生である私の前で、一人の新人相談員が先輩相談員から早々につるし上げられていた。理由は「DVを受けています」という相談に「どこで?」と聞き返さなかったから。「DVって言っていたので、たぶん家の中でだと思いますが」(※注1)。涙目になりながらなんとか反論した新人相談員のその一言が、先輩相談員の怒りの導火線に火をつけた。「だと思いますだァ?」という表情の先輩の口から、機関銃のように言葉があふれ出す。
簡単に「家」って言うな。「家」ってどんな家? 一戸建てか、集合住宅か。何部屋もあるのか、ワンルームなのか。暴力が起きているのは家のどこでか? 寝室、居間、廊下、玄関、子ども部屋、風呂場、台所、トイレ、それらでないどこか? つまり、彼女に逃げ場はあるのか。一気にそうまくしたてた後、最後に先輩相談員はこう言った。「家に居場所がないなら、別の場所が必要なんです。そのSOSを聞き取れなくて、なんのためのDV相談員なの?」
前おきが長くなった。でもこの本を見ていて、「居場所」という言葉を久しぶりに思い出した。ソウル在住の韓日翻訳者、生田美保さんからいただいたマンガである。タイトルは『자리』。辞典的な意味では「席/場所/地位」などの意味を持つ言葉だが、読み終わったときにあのカンファレンスの場面と重なり、自分が訳すならこれは「居場所」だろうな、と思った。
美大を卒業した20代のソンイとスニは、絵を描いて暮らしていきたいという夢のため、アルバイトをしながら共同生活できる部屋を探している。二人の夢は、そう大それたものではない。芸術に没頭したい若者ならだれもがその道で食っていきたいと思うだろうし、二人は絵を描くためのそれぞれの机さえ入れば、ベッドも一緒で平気だしトイレだって共同でも仕方ないと思っている。しかし、何しろ住宅事情が悪い。こんな家があるのか、と唖然とするような物件ばかりが登場する。
保証金300万ウォンに月々の家賃が30万ウォン、つまり、すごくざっくり日本式に言うと、敷金が10か月分(10か月分!)で月々の家賃3万円、という条件で紹介されたのは、建物地下にある元銭湯。もちろん窓はなく、タイルは割れ、冷房も暖房もない。ソウルの冬はマイナス14、5℃まで下がる極寒だ。机も置けるし作品も並べられるが、屋外よりもさらに冷える風呂場の空気に体が先に音を上げ、二人はその家を後にする。
居場所探しの旅は続く。『赤毛のアン』を彷彿とさせる屋根裏部屋は、床下収納の蓋と思いきや開けると真下は階下の家のリビングで、その騒音たるやとても絵が描けそうにない。半地下の部屋はもともと二部屋だったものに壁を作って四部屋にしているから、トイレの小窓を空けると、即隣室の男性の部屋である。
無理のある建物の設計は、隣人との距離も否応なく縮める。しんどい思いをしているからこそ、その建物に流れついた人々だ。隣人と距離の取り方も非常に難しい。やたらと部屋にやってきてあれこれ頼む人。感じはいいが、そこはかとない悪意や卑下が感じられる人。落ち着ける居場所を見つけて絵に集中したいと思えば、高い家賃のいい物件を探さざるを得ない。そのためにアルバイトを増やせば、絵を描く時間は奪われる。悪循環に体力も気力も、夢を見る力も失われていく。
そして、やはり。女性であることで襲いかかる理不尽も描かれている。
「そもそも女が美大なんか行くからそうなんだ、絵なんか描いてたら嫁に行けなくなる」と父親に怒鳴り散らされ、スニは夢を追うことに罪悪感を抱いている。ソンイは、半地下の部屋で深夜に作業をしていて、窓の柵を切って押し入った男に仕事道具やパソコンまですべて持って行かれる。男が去った後、アップに描かれたソンイの頬には、暴力があったことをうかがわせる黒いアザがある。経済的な余裕がないことは重々知りつつも、もう怖くてその部屋では作業できないと、ソンイは泣きながらスニに再度の引っ越しを頼み込む。
物語の終盤。スニが病気になって実家に帰ることになり、1人で暮らさなければならなくなったソンイは、敷金ゼロ物件として不動産屋からタワーマンションの、地下二階の、駐車場の、光が一筋も差し込まないプレハブを紹介される。
ソンイは思う。「私ひとりだと、人が住めないようなところにいなくちゃならなかったんだ……」。女ふたりで収入を合わせていたから、どうにか家賃を払い、それまでの生活が維持できていた。自分ひとりでは、夢を追う以前に居場所も持てなかったという現実にソンイが気づく瞬間だ。ふと思いついてそこまでのページを確認してみた。男性の住人は、1コマしか出てこない背景化された人物まで、みな1人暮らしのように見えた。
韓国の本を翻訳していると、必ずといっていいほど「チョンセ」や「ウォルセ」という単語に訳注をつけることになる。「韓国独自の賃貸システム」とも書いたりする。確かに、日本に比べれば賃貸住宅の種類は多く、また法によらないさまざまな賃貸形態もある。そのあたりのリアルな状況、特に若者が定住できずにさすらうさまは、最近出版された『搾取都市、ソウル ─韓国最底辺住宅街の人びと』(イ・ヘミ 著 , 伊東 順子 訳)が非常に詳しい。
だが国やシステムの違いはあっても、自分の居場所を次々に奪われ、この社会には自分の居場所が(これしか)ないと思った瞬間の心のありようは、万国共通であると思う。女性のほうが居場所を奪われる可能性高いこと、居場所を失っているという事実が表に現れづらいこともまた、同じだろう。特にいま。ニュースは攻撃や、廃墟や、死者や、負傷者を伝えているが、戦火がやまない地で居場所を奪われ、理不尽な仕打ちにさらされている伝えられていない女性たちの存在を思うたび、震えずにはいられない。
不良社会福祉士ではあるがソーシャルワーカーもしているので、折に触れ冒頭の韓国でのカンファレンスを思い出す。相談をされれば、特に家のことは丁寧に質問をする。あなたの居場所はありますか。居場所がなくて、困っていませんか。そんな思いを抱きながら。
【紹介した本】
☆キム・ソヒ「居場所」
原書の書誌はこちら
7年で10回の引っ越しを重ねた著者の実体験がベースになった作品。2020年に韓国漫画映像振興院の多様性漫画制作支援事業対象作品に選ばれている。
☆イ・ヘミ著、伊東順子 訳 『搾取都市、ソウル ――韓国最底辺住宅街の人びと』(筑摩書房)
書誌はこちら
小山内園子(おさない・そのこ)
NHK報道局ディレクターを経て、延世大学などで韓国語を学ぶ。訳書に、ク・ビョンモ『四隣人の食卓』(書肆侃侃房)、キム・ホンビ『女の答えはピッチにある 女子サッカーが私に教えてくれたこと』(白水社)、イ・ミンギョン『私たちにはことばが必要だ』『失われた賃金を求めて』『脱コルセット:到来した想像』(共訳・タバブックス)、カン・ファギル『別の人』(エトセトラブックス)など 。ほかに、小山内園子・すんみ責任編集『エトセトラVOL.5 』(特集:私たちは韓国ドラマで強くなれる)がある。
「翻訳者たちのフェミニスト読書日記」