「翻訳者たちのフェミニスト読書日記」

NO.10「『蛍ちゃん』と詩を書く女」(小山内園子)

2021/10/1

海外の熱きフェミニズム作品を私たちに紹介してくれる翻訳家たちは、どんなフェミ本を読んでいるのだろう? 読書リレーエッセイの今回は、韓国語翻訳の小山内園子さんが、北国が舞台のあの「国民的」ドラマから思い起こした、家庭内エッセンシャルワーカーの物語。

 

地上波をほとんど見ないので、テレビをつけるとだいたいいつもケーブルテレビのチャンネルだ。季節の変わり目や連休は「特別企画」と銘打たれ、過去のドラマが連続再放送されることが多い。なかでも結構な頻度で放送されているのが『北の国から』。うっかりそのまま見てしまい、途中でハッと思い出す。まずい、またモヤモヤさせられるぞ。最近ではもうどのあたりでそれと遭遇するか予想がつく。小学生、それも往復数キロの道のりを徒歩で通う遠距離通学の小学生の蛍ちゃんが、立派な大人の父親や元気な兄がいるにもかかわらず、炊事をする場面。

父親と兄のやりとり、あるいは彼らのモノローグの傍らで、蛍ちゃんはだいたい後ろを向いている。カットが切りかわると、うつむいて黙々と皿を洗ったり野菜を切ったりしている。セリフはほとんどない。父も兄もいろいろと苦悩しているが、リアルタイムで家族最年少の構成員がひとり炊事をしていることには気が行かない。蛍ちゃんは背景化され、蛍ちゃんの身に起きていることは議論化されない。

今なら立派なヤングケアラーである。もっとも、蛍ちゃんの父親も兄も自分自身の面倒がみられないほど心身の不調があるとは見えない。つまり、やれないのではなくやらないのだ。やらせているのだ。最も年端のいかない者に。おそらくは「女児」だから。

家庭の中には、誰かがやらなければ生活が回らなくなるのに、されていて当たり前と見なされる労働がある。どの家庭にもエッセンシャルワーカーがいる。「エッセンシャルワーカー」という言葉は美しいと思うが、そうやって持ち上げながら対価や尊厳をきちんと与えないのは社会も家庭も同じに映る。

そうした労働を担う立場は家庭でどんなふうに決まるのか。担わされた者の胸にどんな想いが去来するのか。昨年秋、韓国の女性作家キム・イソルが発表した中篇小説『私たちの停留所と筆写の夜』(우리의 정류장과 필사의 밤)』を読んで、しきりに蛍ちゃんを思い出した。小説の始まりはこんなふうだ。

季節の移り変わりを実感するたび、私はあの人のことを思い出した。コンクリートの合間から必死に顔をのぞかせているタンポポを見たとき、蒸し暑い空気の中に水分を感じたり、歩道に落ちた銀杏を踏まないようにして爪先立ちで歩いたり、窓枠を強く揺する冷たい風の音をだまって聞いていたりするとき、あの人とは別れたのだと思い知らされた。忘れる気はなかったから思い出すのはあたりまえで、そのたびむしょうに会いたくなる自分から目を背けることもしなかった。愛してなかった時間はなかったという事実にいまさら気づいても、驚いたり改めたりもしなかった。いつもお互いへの精一杯をつくしてきたから、もっと愛したらよかったという後悔もなかった。

主人公の「私」は老親と暮らす40代のシングル女性。一昔前の言葉でいえばパラサイトに近い。受験、就職にことごとく失敗し、親も本人も「とるにたらない人生」だと思っている。実は「詩人になりたい」という夢があるのだが、めったに口に出さない。恋人と妹が数少ない理解者だ。バイトの合間に詩を書き、よいと思う作品を書き写し、たまに恋人にも読んで聞かせる。恋人はスーパーの非正規職員で、2人はしずかな恋を10年近く続けている。おそらく、状況が許せば一緒に暮らすつもりだったのだろう。

だが、冒頭のように2人は別れてしまう。「私」が家のすべてをしなければならなくなったからだ。

ある日「私」は、妹が夫に殴られている場面を偶然目撃してしまう。義憤にかられ、引きずるようにして妹と幼い姪、甥を連れ帰るが、そのせいでつましい生活を続ける実家は経済的に揺さぶられる。とりあえず「稼げる人が稼ぐ」ことになり、夜間警備員の父に加え専業主婦だった母もパートへ。学歴・職歴があって最年少の妹は最も仕事の口があり、昼と夜のダブルワークを始める。そして学歴も職歴もスキルも若さもない「私」は、家にこもってすべてをこなす役回りとなる。

すべて。それは他の家族の日常を回すため、自分の時間を差し出すことである。出勤時間の違う家族にそれぞれ朝食を用意し、食べさせ、片付け、合間に子どもたちを起こし、着がえさせ、朝ご飯を食べさせ、通園バスにのせ。時間がないときにかぎって、姪が出した服を着ないと駄々をこねたり甥が乾麺をばらまいたりする。どうにかこうにか間に合わせると、今度は夜勤明けの父が帰ってくる。また朝食の準備。昼間眠る父を起こさないよう、息をひそめて炊事、洗濯、買い出し。やがて子どもたちが帰ってきて、母親が帰ってくる。父親が出勤し、母親が夕食後にくつろいでいるあいだ、「私」は子どもたちを風呂に入れ、着替えさせ、寝かしつけ、ゴミ出しをする。てんてこまいしていても母親は手を貸さない。なぜならそれは「私」の役目だから。

やっと1人の時間になる深夜。もはや「私」には詩を書く力が残されていない。それでも夢のため「私」は好きな詩を筆写する。それはたとえばこんな詩だ。

詩を書く前に
ゴミを捨てに行く女
詩を書く前に
布団を敷いて畳んで、雑巾がけをする女
詩を書く前に
ご飯支度をする女
(中略)
散らかった所帯道具のあいだを 詩ばかりが黄背筋蛇のようにすり抜けていく女
ぎっしりつまっているから いつもからっぽの女
--イ・ソニョン「詩を書く女」抜粋

それを失ってから
もう私は、どんなものも失えるようになってしまった
--パク・ソラン、「失ってしまった」抜粋

「私」の恋人は、彼女の苦境を知っている。だからこそ一緒に暮らそう、外から家族を支えよう、でないとあなたは自分の人生を歩けなくなると何度も言う。だが「私」は一方的に別れを告げる。冒頭の引用は、復縁を迫る恋人への未練を断ち切るため、もう一度だけと会いに行く場面である。

家庭内で誰がエッセンシャルワーカーとなるか、その決め方はいろいろあるだろう。だが、家事能力が高いとかケア労働に長けているからと選抜されることは少ないのではないか。社会でいうところの「生産性」が低いと見なされ、家事を担うのが当たり前とされる構成員に、逆らえない運命のごとく振りあてられるもの。現状それを担っているのは圧倒的に女性である。

実は、著者のキム・イソル自身、ケア労働によって数年間書けない時間が続いていた。日常が侵食して物語の言葉が浮かんでこないとき、恐怖に襲われて詩を書き写したのだという。本書に挿入されている詩は、作家が実際に筆写した作品である。

物語は妹の恋人の出現で急展開する。次女可愛さに、母親は妹が再婚するときは実家で姪と甥を引き取ろうと言い出す。いよいよ家に縛りつけられる予感に、「私」はある行動に出る。リアルで切実な描写が多いが、読後感は非常に爽やかだ。ちなみに刊行後のインタビューで著者は、「私」の恋人に同性を想定していたと明かしている。選択肢を奪われ、固定的な役割を課される時間を経て、著者自身は広く明るい場所にたどりついたのだと胸を打つ。

蛍ちゃんは北海道で炊事をしていたが、「蛍ちゃん」的存在は全国津々浦々、いや世界各国にいる。父子家庭、長女で、幼い頃から自分がきょうだいの母親がわりで家事をしてきたという韓国人女性がこんなレビューを寄せていた。

「周りや世間を喜ばせるためでなく、自分がうれしいとき、はじめて世界は完全なものになるんだ」

同じ思いを抱える誰かに自分が置かれている場所を伝え、こんな気づきを与えるというだけで、すごい物語だと思う。蛍ちゃんに読ませてあげたい。蛍ちゃん、周りや世間を喜ばせる必要なんて、ないんだよ。

 

【紹介した本】

キム・イソル著『私たちの停留所と筆写の夜』、2020年10月刊行、未邦訳

【詩の出典】
イ・ソニョン「詩を書く女」 『60かけらの悲歌(60조각의 비가)』、民音社、2019
パク・ソラン、「失ってしまった」 『1人の人の閉ざされたドア(한 사람의 닫힌 문 박)』、チャンビ、2019

【著者について】
キム・イソル
1975年生まれ。13歳の少女ホームレスを描いた作品で2006年にデビュー。日本語で読める作品に「更年」(斎藤真理子訳、『ヒョンナムオッパへ』収録)がある。

 

小山内園子(おさない・そのこ)
NHK報道局ディレクターを経て、延世大学などで韓国語を学ぶ。訳書に、ク・ビョンモ『四隣人の食卓』(書肆侃侃房)、キム・ホンビ『女の答えはピッチにある 女子サッカーが私に教えてくれたこと』(白水社)、イ・ミンギョン『私たちにはことばが必要だ』『失われた賃金を求めて』(すんみとの共訳・タバブックス)、カン・ファギル『別の人』(エトセトラブックス)など。責任編集に、『エトセトラVOL.5  』(特集:私たちは韓国ドラマで強くなれる)。