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フェミ登山部「あの日、山で見た景色」第11回:私と言葉とフェミ登山部(あやみ)

2024/6/15

「フェミ登山部」とは、主に関西近郊の山を巡ったり、ときどき遠くの山に登ったりもする、トランスやクィア、シスとヘテロも参加する多様なフェミニストたちのコレクティブ。メンバーたちが山を登りながら、ときに下りたあと考えたあれこれを、リレー形式で連載します。第11回は、あやみさんが、フェミ登山部だから感じた、誰かと言葉を共有することの大切さについて書いてくれました。

 

この文章では、私がどんな人かを紹介したうえで、私がフェミ登山部と関わるときに感じていることを書いてみたい。

〈自己紹介〉
まずは自己紹介(になるかわからないけど)。私はリラックスすることが苦手だ。不安・焦り・緊張の3点セットはいつもそばにある。学生時代はよりよい成績をとることに勤しんだし、6年目になった会社員生活の中でもできる限り職位に応じた働きをして、周囲から認められたいと思いながら生活している。

私は、いつもそこにある「規範」に対して、不足/過剰な自分を持て余してきたなと思う。不足/過剰さは、特に発言するときに顕著に表れると感じている。不足/過剰が露呈するのが嫌で、発言するときには、私がどう考えているかよりも先に、その場で流れている規範を理解して合わせようという方向に意識が向いてしまう。

だから、他人と関わるときは、ただおしゃべりするよりも、一緒に編み物をするとかデモ行進に参加するとか、言葉のみに依らずに行動できる場にいるほうが、落ち着いて一緒にいることができると感じている。

〈フェミ登山部にいるときの私〉
フェミ登山部であっても、私の傾向はあまり変わらない。フェミ登山部のメンバーであるといえるために、私は「適切な」行動や発言をしているか、いちいちスキャンすることがやめられない。だけど、フェミ登山部は登山という身体を動かす大目的があるので、とてもありがたい。そして山を登っていくうちに、少しずつ気持ちは変わってくる。

山にいるときは、山に包まれているような安心感がある。もちろん、踏みゆく土の柔らかさや、足をかけようとする岩がしっかりしているかどうかを確認しながら進むので、完全に安心しているわけではない。でもその時の緊張感も、人間といるときの緊張感とは違う。木や土の匂いを浴びて歩いていくと、だんだん評価する視線が剥がれていく気がする。

山は私を評価しない。私も山を評価できない。私がいなくても山はある。山にいると、社会に生きる私から解放される気がする。

と、かっこよく言ってみたけど、実際は、ただ息が上がっているから考える暇がないというだけなのかもしれない。

〈フェミニズムと私〉
山を登るときに感じることは、フェミニズムと出会ったときの思いと似ている。大学で倫理学を勉強していたとき、古くから「人間はどう生きるべきか」は考えられてきたけれど、そのときに「人間」として想定されていた人はごく限定的だったのだということを知った。それから、どんな本を読んでも、この哲学者はアジア人女性の私を「人間」と認識しただろうか、という疑問が頭を離れなくなった。

フェミニズムの流れにある人々の本を読むことを通じて、「こう判断するべき」ということよりも、例えば栄養を補給すること、清潔を保つこと、そして他者に思いやりを持つことなどといった私たちがなくては生きていけない「ケア」の視点から倫理を考える方法を知った。フェミニズムの視点を得ることは、私がいつも緊張している「こうあるべき」と思いこんでいる規範は、本当に実現可能な規範だろうか、と規範との距離をとるやり方を身につけることにつながった。

「ほんとうはあるのに、ないものとする」ことで成立している規範があることを知り、その規範が隠しているものはなんだろうと考えることは、より緩やかに生きる姿勢を教えてくれたと思う。同じように、日々街で暮らして、土に触れることも少ないような暮らしをしている私にとって、山に登ることは「普段ないものとしているもの」を思い出させてくれる場でもあるなと思う。

〈フェミ登山部にいる私を振り返る私〉
というわけで、そんな自分のことばかり考えながら山に行っているので、せっかくのフェミ登山部でも、あまり周りの人と話したりはできていないかなと思う。それでも私は居心地はよいので良いかなとは思っている。

一方で、言葉を放棄して黙っている私は、他の人の安心・安全にどんな影響を及ぼしているだろうか、ということも少しだけ考える。黙っていられる、いちいち私が誰であるかを説明しないでもいることができることは、特権なのかもしれない。そして、様々なヘイトが平気で日常を跋扈する中では、ヘイトに反対する姿勢を示さない人がその場にいることが、安心できなくなる理由になることもあるのだとも思う。

去年の6月、LGBT法案が通ったあとのフェミ登山部で、最初にみんなで今感じていることを共有する場があった。そのときに私はおそらく人生で初めて「私はあらゆる差別に反対します」とはっきり口に出した。はっきり言うことで作れる安心もあると気づいたからである。

〈これからもフェミ登山部にいたい私〉
フェミ登山部でグランドルールを明文化しよう、という話が前々から出ている。私が山に登る大きな理由の一つに、普段感じている緊張を剥がすためという気持ちがあることは変わりない。でも、これからもフェミ登山部の人たちと一緒に登っていきたいから、言葉によって安心・安全の場を保障していくことも大事だなと思っている。

言葉があることで、私が変われること・変わるべきだと気付かされることもまだたくさんあると思う。そのときに、私は一人ではないのかもしれないなと思わせてくれる場が、フェミ登山部だ。

 

上)葛城山の山道 下)比叡山からの景色

 

フェミ登山部(ふぇみとざんぶ)
2022年春から活動を始めた、月1ペースで主に関西近郊の山を巡る(時々遠出もする)、トランスやクィア、シスとヘテロも参加する多様なフェミニストたちのコレクティブ。トランス差別をはじめとしたあらゆる差別に反対し、自身の特権性に向き合いながら学ぶ姿勢を持つ20代から70代までの幅広い年齢、そして様々な経験を持つフェミニストたちが参加している。

あやみ
大阪在住の会社員。経堂にある女子中高一貫校出身。エトセトラブックスの書店が高校生の時にあったらよかったなと思っている。