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フェミ登山部「あの日、山で見た景色」第2回:登山道にて(井谷聡子)

2023/9/14

「フェミ登山部」とは、主に関西近郊の山を巡ったり、ときどき遠くの山に登ったりもする、トランスやクィア、シスとヘテロも参加する多様なフェミニストたちのコレクティブ。メンバーたちが山を登りながら、ときに下りたあと考えたあれこれを、リレー形式で連載します。第2回は、井谷聡子さんによる、富士山頂を目指した夜から夜明けの話です。

 

自然はあなたを知っているのだ。たとえあなたが道に迷っていても。
――ロビン・ウォール・キマラー

山に登るとき、私はどこかに出発しようとしていた。
でも私は、山に登ることで帰ろうとしているのかもしれない。

―――

午前2:00。予定より早く目が覚めた。まだ真っ暗な小屋のどこからか、疲れた寝息が聞こえてくる。梁の向こう側で夜半まで私を悩ませていた大音量のいびきは、1時間ほど前から止んでいた。彼のグループは富士山頂でのご来光に向けて、真夜中すぎに出発していったようだ。

山に入るために仕事を詰め込んだせいで、ここ数日はあまりしっかりと寝られていなかった。寝不足に加えてマスクをしたまま寝たことで、目が覚めたら高山病にかかっているのではないかと少し不安だった。目を閉じて、深く息を吸ってみる。心配した頭痛は出ていない。手足の指を動かしてみる。気になる痛みや痺れもなさそうだ。

本当はもう少し眠っていたかったが、この日の行程についてあれこれ考えを巡らせるうちにすっかり目が覚めてしまった。山ではいつもこうだ。眠りが浅く、短い。

午前2:30。荷物をまとめ、まだ寝ている人を踏みつけないよう、そっと梯子を降りる。真っ暗だが、出発までヘッドライトは点けない。一旦点灯すると、せっかく暗闇に馴染んだ目が繊細な光を捉えられなくなる。星の声は小さい。

天気は下り坂という予報が少し気になりながら外へ出た。すると、そんな私の不安をよそに、そこには満天の星が広がっていた。視界一杯に、足元まで星空が広がっている。まるで宇宙に浮かんでいるようだ。頬にピリッと冷たい空気が触れる。高山でしか出会えない瞬間。

眼下には、山中湖周辺から関東平野に向かって、雨に濡れた蜘蛛の巣のように街の明かりが伸びている。それは視界の右側、富士山の南方でぷつりと切れ、その先の闇は、いつの間にか夜空に吸い込まれている。ところどころに見える小さな雲の塊は、まだ地面にへばりついて眠っている。天気はもってくれそうだ。

小屋の方を振り返り、山頂方向を見上げて息を呑んだ。一等星よりも強い光の列が、ゆらゆらと夜空に向けて登っていく。その先には、天の川を背にした白鳥座が大きな翼を広げていた。このまま登り続けたら、本当に宇宙にいけるかもしれない。

光の列が空に吸い込まれる場所、あそこが山頂だ。

登山の基本の一つに、早めの出発、早めの到着、日没後は動かない、というのがある。だが、富士山にはその基本が当てはまらない。山の初心者もベテランも、小さい人も長く生き抜いてきた人も、みな手元の小さな灯を頼りに、真っ暗な道に足を踏み入れていく。

混雑する登山道は苦手だ。でも、真夜中に山の頂を目指す人々が織りなす灯の街道には、強く惹きつけられる。疲労と眠気に耐え、人生が投げて寄越す抱えきれない荷物を背負いながら、それでも人は登っていく。

午前3:00。ガチャっと山小屋の戸が開いて、フェミ登山部の面々が顔を出す。ここ1年半ほど山でたくさんの時間を過ごしてきたフェミニストの仲間たち。トランスでもクィアでも、安心して一緒にいられる大切な仲間だ。それぞれに不安と疲労、興奮と緊張が入り混じった表情を浮かべている。私以外は、みな初めての富士登山だ。全身の力を集中してこの山に向き合おうとするその姿に、さっきまで頭上のブラックホールに吸い込まれそうになっていた意識が、一気に現実に引き戻された。大丈夫、私はまだここにいる。

20年前も、私はここにいた。山育ちで、小さい頃から野外活動に慣れ親しんできたけれど、本格的な登山のことは何も知らなかった。薄っぺらな雨具とヘッドライトだけを持って、夜行バスで疲労した体でふらふらになりながら登った。まるでトランスとしての人生のようだ。誰もこの先の進み方を教えてくれない。コンパスも、虚しく後ろを指し示すだけ。

山頂の凍えるような寒さや、容赦なく照りつける太陽の光、目や喉を刺激し、靴やザックの奥まで入り込む小石や火山性の砂埃。あの頃は、じわりじわりと、時に暴力的に体力と気力を奪っていく様々なものごとから身を守る術を知らなかった。

今のように、この道の詳細を伝えてくれるガイドはおらず、その歩き方について、次々と目まぐるしく語りかけてくる言葉も動画もなかった。なんとか山頂だといわれた場所まで辿り着きはしたけれど、満身創痍。とにかく、早く降りてしまいたかった。一緒に登っていると思った人々は、気がつけばそこにはいなかった。

あの日から20年。土のない、インターネットという世界には、多数の無責任で攻撃的な言葉たちがパンデミックのように広がり、ほんの一握りの、でも絶望的に必要だった言葉を飲み込もうとしている。

でも私は、この道を歩く知恵を、だいぶ身につけたと思う。そして今この場所に、特別な仲間と一緒に立っている。

もう一度ふもとの方に目をやると、さっきまで深い海に落ちていくようだった夜の静けさに、いつの間にか微かな波紋が広がっていた。地平線が揺らめき始めている。

夜明け前、出発の時間だ。

地平線が燃えるようなオレンジ色に染まる。夜明け

溶岩帯で、たくましく育つイワツメクサ

 

フェミ登山部(ふぇみとざんぶ)
2022年春から活動を始めた、月1ペースで主に関西近郊の山を巡る(時々遠出もする)、トランスやクィア、シスとヘテロも参加する多様なフェミニストたちのコレクティブ。トランス差別をはじめとしたあらゆる差別に反対し、自身の特権性に向き合いながら学ぶ姿勢を持つ20代から70代までの幅広い年齢、そして様々な経験を持つフェミニストたちが参加している。

 

井谷聡子(いたに・そうし)
スポーツとジェンダー・セクシュアリティの研究者。ジェンダー・クィア。

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まだ伝えられていない
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これまでエトセトラ(その他)とされてきた女性の声は無限にあり、フェミニズムの形も個人の数だけ無限にあります。
そんな〈エトセトラ〉を届けるフェミニストプレスです。

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