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カン・ファギル『別の人』より小山内園子「訳者解説」を公開します

2021/3/11

2021年3月28日発売に先駆け、カン・ファギル『別の人』(小山内園子訳)の訳者解説を公開します。韓国の新しいフェミニスト作家たちを指す「ヤングフェミニスト」、その筆頭であるカン・ファギルの初邦訳作品です。デートDVを題材に、韓国でも社会問題化している性暴力被害について、暴力がおきる「構造」に真正面から描き、「ドローンではなくダイナマイトのような、矢よりも短刀のよう」と評された本作。それでいて、ミステリー小説にも似た手法で読ませるこの作家と作品について、ご自身も社会福祉士として、主に女性の相談に携わっている小山内さんが解説します。

 

『別の人』訳者解説

 

受け入れがたい暴力にさらされたあとも、人生は続く。
そのとき記憶はどう働くのか。人をどう変えるのか。

本書は、2017年に発表されたカン・ファギルの長編小説『別の人』の全訳である。30代前半のジナは、恋人から受けたデートDⅤをネットで告発するが、逆に彼女のほうが誹謗中傷にさらされる。無数の書き込みの中に大学時代の出来事を暴くようなひとつを発見して、ジナはかつて暮らした街、アンジンへと向かう──。

著者のカン・ファギルは1986年生まれ。2012年に短編小説「部屋(방)」でデビューして以来、一貫して女性が抱く恐怖と不安をテーマに小説を書き続けてきた作家だ。本書は、2021年1月の時点で刊行されている唯一の長編作品であり、日本に紹介される初めての作品である。

韓国でも社会問題化するデートDⅤを題材に、女性を取り巻く暴力構造を正面から描ききった本作は、2017年にハンギョレ新聞社主催のハンギョレ文学賞を受賞した。選評で審査員の一人は「最近急浮上しているヤングフェミニストの声が、具体的につめこまれた作品」と評している。

 

■韓国文学の「ヤングフェミニスト」

作品が韓国社会にどう受け止められたかを見る前に、まずこの「ヤングフェミニスト」という言葉について、また、ここ数年の韓国文学をとりまく状況について触れておきたい。

2016年5月に起きた江南駅女性殺人事件によって、韓国社会は大きなパラダイムシフトを迫られた。犯人が〈誰でもいいから女性を殺したい〉と考えていたことが報じられると、事件は単なる無差別殺人ではなく、女性嫌悪殺人だとの声が上がった。それまで有形無形の暴力にさらされてきた女性たちの不安は「女であるだけで命すら奪われる」という究極の形をリアルな殺人事件として共同体験することになった。

その体験を裏付けるかのように同年の秋刊行されたのが『82年生まれ、キム・ジヨン』である。どちらかというと人文書のテーマだったフェミニズムが物語の言葉で、身に迫る形で伝えられたことで、フェミニズム・ムーブメントはますます加速した。「自分はフェミニストだ」という集団的なアイデンティティが生まれ、大規模なデモが行われ、オンラインでの活動が活発化する。その中心を担ったのはヤングフェミニストと呼ばれる20代を中心にした世代だった。

社会の動きと呼応するように、フェミニズムを体感できる小説を発表する若手作家が次々と登場する。カン・ファギル、チェ・ウニョン、パク・ミンジョンら80年代生まれの彼女たちは「ヤングフェミニスト作家」と呼ばれた。

もちろん、それ以前にも韓国文学にフェミニズム小説は存在する。前の世代の作品とヤングフェミニストたちの作風の違いについて、文芸評論家のチャン・ウンスはこう指摘している。「以前のフェミニズム小説が女性の日常の探究、女性の感受性や感覚を浮き彫りにしたものだとすれば、最近の作品は理念的、戦闘的で、明らかに女性主義を掘り下げようという傾向がある」

そういう意味で、ヤングフェミニストとされる作家が精力的に作品を発表した2017年は象徴的な年だった。韓国日報は一年の文壇を回顧し、〈文学界の世代交代がなされた年〉と総括している。本作はその2017年に発表された作品である。

 

■韓国での性暴力被害

物語は、職場の先輩であり恋人でもある男性から深刻な暴力を受けていたジナの語りから始まる。被害者であり、恋人の罪を勇敢に告発したはずのジナは、いま荒みきった生活をしている。勤めていた会社は辞めて部屋に引きこもり、まともな食事もせず、ただひたすら自分への悪意の書き込みをパソコンにかじりついて確認する日々。被害者である自分がなぜそこまでバッシングを受けなければならないのか、自分の落ち度はなんだったのかを知りたいからだ。

そして書き込みの中に、明らかに過去の自分を知っているとほのめかすようなコメントを見つけて、ジナは大学時代過ごした街へ向かう。

故郷に戻ったジナの足取りにしたがって、複数の女性たちが登場する。表向きは優雅なカフェの女主人でありながら、過去の性被害の記憶が夫婦生活にも影を落としているスジン。若年妊娠と中絶を経て恋愛断ちを決心したダナ。「息子」ではなく「娘」だったために将来の選択肢を狭められつづけ、女性嫌悪を内面化した女性教授のイ・ガンヒョン。そして、自分らしく前進することを決めた矢先にこの世を去ったユリ。非常に多声的なテキストだ。それぞれ異なる立場の「声」を手がかりに、ミステリーにも似た手法で物語は進んでいく。読みながら読者は、彼女たちの語りの独特さに気づくだろう。行きつ戻りつする記憶。必死に自分の内面をのぞき込み、感情を確かめようとする息づかい。そして思いいたる。ああ、これは体験したせいだと。登場する女性全員が、女性であるだけでなにがしかの暴力を体験しているからだろうと。

あまり知られていないが、韓国は女性の暴力被害についてその都度必要な法制度を整えてきた国である。DVを防止する法律は日本に先駆けること4年の1997年に、日本にはない性暴力に特化した法律は1994年に、それぞれ法制化された。2019年には女性への暴力全般を定義し、いっそうの被害者保護を強化した「女性暴力防止基本法」も施行されている。本書には女性たちが同意なしに行われた性行為を「性暴力相談所」に相談する場面が何度か登場するが、その機関も法的根拠が整ったことで大幅に増加した。韓国女性家族部の発表によれば、2020年12月の時点で全国167か所に設置されている(ただしほとんどは民間団体が運営)。対応するのは性暴力被害について64時間の専門教育を修了した性暴力相談員だ。体制として被害者保護が立ち遅れているわけでは決してない。

だが、一方で刑法はほぼ日本と同様。性行為の同意がないことのみを犯罪要件とする規定はなく、2020年5月まで「性交同意年齢」(性行為をするか否かを自ら判断できるとされる年齢)は日本と同じ13歳だった。

刑法は罪の重さを定める法律である。たとえ被害者支援のスキームが法で整えられていても、加害者に科される刑罰が被害者の負った傷の深さに見合っていない場合、被害者はどう思うだろう。作中、自分の身に起きたことがなぜ「準強姦」とされるのか、スジンが煩悶する場面がある。

──彼女が調べたところ、ほとんどのレイプは女性が強い拒絶を示した時にのみ立証されていた。つまり、暴力的な状況で行われた時にのみレイプと認定された。そのことにスジンはひどく混乱した。女性が激しく殴られ、叫び声をあげ、脅され、つまり命の危険を感じた後の性関係のみがレイプと呼べるなら、スジンの経験したことは決してレイプではなかった。スジンはひどく殴られたわけでもなく、泣き叫んだわけでもなく、脅されもせず、命の危険も感じなかった。だが、望んでいなかった。望んでいなかったという事実を、なぜ加害者から受けた暴力のレベルで判断されなければならないのだろうか。理解できなかった。スジンにとってのレイプは単純だった。本当に簡単に区別がついた。被害者が望んでいない時に持たれた性関係。

まさにスジンのように。酒に酔い、意識を失い、何もできない状態の時にされること。スジンの場合は準強姦に該当した。準。よりによってこの単語の前に「準」という言葉がつくのか?(本書204ページ)

社会が加害者を赦してしまえば、それ以上罪は問えない。だがいまだに傷はいえない。その傷の責めを負うべきは誰なのか。悪いことをしたほうが放免されるなか、悪いことをされたほうは延々と自分を責め、疑う。「あんた」が、悪かったんじゃないのか。「あんた」に、何か落ち度があったんだろう。だから、あんな目に遭ったんだろう。その落ち度を探せばいいんだ。そういう人間じゃなくなればいいんだ。

登場する女性たちは一人として同じ体験をしていないが、唯一の共通点がある。みな「別の人」になりたがっていることである。

韓国社会の性暴力被害女性をとりまく状況について、韓国を代表するフェミニストの鄭喜鎮はこう表現したことがある。

「性暴力被害女性たちは、どのように表現すればよいのかわからない。性暴力について語ることは、あまりにも政治的な行為になるからだ。被害女性は性暴力の経験を語ることで”運動家”にさせられてしまうのであり、自分を被害者化(victimize)する視線に耐えなければならない。被害女性が簡単な法手続きを利用することすら容易なことではない。韓国社会は女性の被害と苦痛の深刻さを認めたり共感しない代わりに、女性を被害者化するのは慣れている。(中略)社会は、女性が被害状況に存在していたという事実そのものを暴力に対する同意や選択とみなしてしまう。このような論理で、被害女性は男性暴力の原因であり結果となる。女性が暴力的状況を”選択”し”同意”したという男性ファンタジーは、実際に暴力を選択した男性の責任を見えなくする」(『韓国女性人権運動史』、韓国女性ホットライン連合編、山下英愛訳、明石書店、2004)

十五年以上前の発言であるが、おそらく状況は大きく変わっていないだろう。『別の人』は発表後ベストセラーとなり、女性たちから熱い支持を得た。あるネット書店の調査によると、購入者の70%が20~40代の女性である。

 

■カン・ファギル作品の目線

訳者は社会福祉士として主に女性の相談に携わってもいる。現実に見聞きする暴力被害の生々しさがあるからかもしれない。翻訳の仕事であっても趣味の読書でも、性暴力が仔細に語られる作品は意図的に避けてきたきらいがある。被害が「物語」として消費されることに加担したくなかったからかもしれない。

なのに本書には圧倒的に引きつけられた。もしかしたらこの作品は、そういう体験の当事者にこそ贈られるべき物語かもしれないと感じた。作品のなかに聞きたかった言葉が見つかるかもしれないと。

理由は二つある。まず一つに、暴力による恐怖感は描かれていても、加害の場面が極力排除されていることだ。カン・ファギルはインタビューで、「暴力」を描く時の明確なルールについて触れている。

「私の小説で暴力が重要な主題だとはわかっているが、暴力的な場面は書かない。小説の話者は大部分が女性で、女性が多くの日常的な暴力にさらされていることを、小説として具現できると思うから。『レイプ』『倒れていた』『目をつむった』、そういう表現で十分暴力的だと考えているし、そういう単語で十分だと思う」(CINE21、2020年7月15日より)

もう一つは、事件を特別な出来事、〈題材〉として扱わず、女性の人生にあたりまえに巣くう不安と位置づけていることだ。そういう目に遭った側が特別なのではない。どこにでもいる人。どこででも起きること。さしてすごくも珍しくもない事件でありながら、一向に減らずなくなりもしない。叙事的に描くことで、実は同じ苦しみを抱えている別な存在を感じ取ることができる。了解可能な誰かの存在は、孤独を減らしてくれる。

先の引用で少し触れたが、本作の題材の一つは「同意なき性行為」である。だがカン・ファギルはそこに女たちの同意があったのかどうかという投げかけはしない。なぜ女たちを同意不要の存在と見なすのかと問う。そしてこの問いは同意なき性行為のみならず、声を奪われたさまざまな存在をも浮き彫りにする。

人は、自分の存在を認められている時にはじめて欲望を口にできるものだろう。小さい頃から大人に「お腹がすいた?」「トイレいきたい?」「大きくなったら何になりたい?」などと無数の声かけをされることで欲望に名前が与えられ、自分がそれを主張してもいいのだと理解する。その経験の不在によって、イ・ガンヒョンは50を過ぎた今も一歳のような心持ちで誰かが自分に問うてくれるのを待ち続けているし、ユリは自分の本音を最後まで口にできない。

この社会は誰かを同意不要の存在とみなしていないか。女性だけではない。終盤に登場する地方差別、児童虐待にも通奏低音のように問いは流れ続ける。

本書は小説である。だが内包されたメッセージは熱く強い。作家チョン・ヨウルのこの評が最も的を射ていると思う。

──この小説は遠くで照準を合わせる遠隔操作型兵器ではない。ひどく至近距離から私たちの鈍った心に鋭い直球を投げつける、原始社会の石斧のような小説である。ドローンではなくダイナマイトのような、矢よりも短刀のような小説だ。あまりに深刻化した「女性嫌悪」社会の空気のなか、日々更新されつづけるフェミニズムの最新型兵器。それが『別の人』だ。

受け入れがたい暴力にさらされたあとも、人生は続く。誰かに変えられた人生を今度は自分で変えるために、登場人物たちは絶望を引き受けて前へ進む。本書の最後のメッセージの「あんた(너)」は、はたして誰に発せられているものか。その意味を深くかみしめていただきたい。

* * *

単行本で読めるカン・ファギルの作品としては、他に『大丈夫な人(괜찮은 사람)』(2016)、『ホワイト・ホース(화이트 호스)』(2020)の2冊の短編集がある。いずれも女性の日常にひそむ不安や戦慄を小説に昇華させた作品が収められている。本作もそうだが、カン・ファギル作品には、おそらくは彼女の故郷である全州や日本植民地時代の建築物が残る群山がモデルであろう架空の都市「アンジン」がたびたび登場する。自身が女性として育ってきた地方都市の因習をたくみに作品にとりこんでいるといえるだろう。

デビューから9年。昨年には短篇小説「飲福(음복)」で「若い作家賞大賞」を受賞し、着実に作家としての地歩を固めている。現在は祖母、母、娘という三代の女性を主人公にした壮大な家族小説の執筆中とのこと。カン・ファギルが紡ぐ物語に新たな一ページが加わるはずだ。

なお、いくつかこの場を借りてお断りをしておきたい。本書には、「つんぼ」「啞」といった現在不適切とされている表現が登場する。作中で登場人物が置かれた状況、その言葉の衝撃によってもたらされた心情を正しく伝えるためそのまま訳出した。また、韓国では数え年で年齢を数えることが多いが、本作では年齢に絡みつく記憶と感情が重要なモチーフとなっていることからこちらもそのまま訳出した。ご了承いただきたい。

原注がある以外にも、作品の中にいくつかの物語が登場している。著者によれば、念頭にあった作品は以下の通りである。

16 メリーアン、メリーアンたち 299ページ
『心は孤独な狩人』 カーソン・マッカラーズ著
17 そして、イヨンに      310ページ
ギリシア神話「エロスとプシュケ」

度重なる問い合わせにも真摯にお答えくださったカン・ファギルさん、翻訳チェックをしてくださったすんみさん、鄭眞愛さん、本書を「つらい物語」「重い物語」ではなく「大切な物語」と呼び、丁寧に編集してくださったエトセトラブックスの松尾亜紀子さん、ありがとうございました。

最後に。暴力被害を経験した多くの方の直接的な言葉が翻訳作業の原点でした。深謝いたします。

2021年1月  小山内園子