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私はフェミニストになろうとしている途中ーー『別の人』第22回ハンギョレ文学賞カン・ファギル受賞コメント

2021/7/1

(c) 이천희 완료

今週7/3(土)に開催する、カン・ファギル『別の人』刊行記念イベントに先がけ、同作がハンギョレ文学賞を受賞した際のカン・ファギルさんの受賞コメントを紹介します。デートDVを題材に、性暴力が起きる構造と、そこからしか生まれない女性たちのつながりを描いた本作。韓国の新しいフェミニスト作家たちを指す「ヤングフェミニスト」の代表とされ、フェミニズムの最前線にいると評価される一方で、「話題性があるから賞をとった」などと批判された作家が、葛藤したのちに、自分にとってのフェミニズムを語っています。ぜひ彼女のことばに触れてください。

 

*この受賞コメントは、ハンギョレ出版社のInstagramで公開されたもので、今回、著者の許可を得て掲載します。

https://www.instagram.com/p/BY7oaxZBImd/

 

2017年 第22回ハンギョレ文学賞 『別の人』  
作家 カン・ファギル当選コメント(全文)
翻訳:小山内園子

 

こんにちは。カン・ファギルです。

春に「第8回若い作家賞」を受賞した際、決して短くない挨拶をしました。女性として生きてきた経験と、自分の書くものについてでした。

それからしばらくのあいだ、私を、文壇内の女性団体、あるいは文化界の女性団体で仕事をしている活動家だと思ったという話がいろいろと聞こえてきました。おわかりになる方もいらっしゃるでしょうが、実際の私は、活動家タイプとは縁遠い人間です。家で本を読んだり、一人であれこれ思いを巡らして考えを整理したりするほうに近いと思います。そういう活動がどれほど勇気を必要とし、毅然とした仕事であるかを知ってますので、ますます活動家のみなさんを尊敬し、機会があれば積極的に支えようと努力をしています。

あの日の私の発言は、広い意味ではフェミニズム運動の文脈につながっていたと思います。しかし多分に個人的な話であり、長い間悩み続けていた自分の思いを、小説家というアイデンティティを介して語ったというほうに近かったでしょう。

そこで、私はこんなことを思いました。

公式な場でフェミニズムについて、そして、女性として生きてきたことと自分の作品とを結び付けて話すと、人はなぜ必ず活動家だと思うのだろう。私はあたりまえに、誰もが語れる話を語っただけなのに、まるで、そういうことは活動する人だけが積極的に言える話、という前提が含まれている気がしました。その感覚には覚えがありました。ある瞬間から、私にずっとつきまとっているものでしたので。最初の本『大丈夫な人』についてのコメント、その直後に発表した小説への評価、私が書くエッセイ、そして今回ハンギョレ文学賞を受賞した『別の人』に至るまでです。ある瞬間、気づきました。私はヤングフェミニストと呼ばれていました。活動家みたいに見える人。今こそ取り上げるべきこと。つまり、話題性がある作品を書く小説家と呼ばれていることを、です。

そして、ある場所ではこんな話も広がっているようです。話題性があるから到底無視できず、与えざるを得なかったから賞をやった作家。

はい、そうです。気になります。かなりの時間、気にしています。ですが、私が、自分の作品を疑うことに時間を費やしているということではありません。

私が気にかけているのは、怖れについてです。

現在、フェミニズムを語ることは非常に重要な問題となっています。本の帯に、私が最前線に立っているという言葉がありますが、私をそんなふうに見て下さっていることをとてありがたく思っています。ですが正直、その言葉を目にするととても怖くなります。それは、まるで自分が他の人たちよりはるかに優れた思考をしていて、ジェンダーの問題について並々ならぬ洞察力を持っていて、より道徳的で、フェミニストのモデルとしての資格がある人間と言われているような気がするからです。

そして私は、もちろんそんな人間ではありません。

自分が至らない人間だから、この物語を書くことになったのだと思っています。

無数の自己嫌悪や到底納得しがたい経験を理解するために、とても長い時間がかかりました。今も、かけている最中です。それは自分が自分として生きるために闘っていた時間であり、私の小説はそうした経験のひとかけらから生まれたものです。完全なるフェミニストだったからこの物語を書いたのではなく、自分で理解できなかったある種の経験と状況がフェミニズムと重なると知って驚き、慰められた。その瞬間をかみしめながら書いたというほうに近いと思います。私はフェミニストになろうとしている途中で、相変わらず学んでいる最中です。

私は多くの失敗をしてきました。完全ではありません。自分で記憶できていないことも、とても多いはずです。そんな中で自分の小説がどこか道徳的にすぐれているとか、そういう目的を持っているかのように見られることに怖くならざるを得ないと。

そして、怖れを抱いているという事実に、恥ずかしさを感じています。自分が書いた物語は大切なことだと信じていて、もっと進んでいかなくてはと思っていながら、同時に怖がっている状態だからです。

つまり、もっと前に進もうとフェミニズムに近づいたはずが、近づくためには完全無欠な有資格者でなければダメと、自分に限界を定めているのと同じだからです。活動家だけに許される発言があるという、ある種の前提のような。

ですので、それを克服するために、また時間をかけています。

他のいい本を読み、ひとつでも多く文章を書き、自分が好きなドラマを見るのに忙しくしていながら、ずっと時間をかけ続けています。なぜなら、そういう悩みなくしては書けないからです。そういう悩みのおかげで、そういう怖れを抱いていたからこそ、私は小説を書き始めたのだし、足を引きずり右往左往しながらも、とにかくここまで歩いてきたからです。おそらく、今後もそんなふうに進んでいくと思います。

これまでの、何百倍もの時間をかけて。

そんなわけで、話題性、今この時にのみ意味を持つというようなことは、私の人生にはありませんでした。

だから、あることを願うようになりました。

この話題性というのが、誰にとっても非常に長く続くように、という願いです。とても、とても長く、です。誰もがこうした題材で小説を書いてほしい。こんな物語がもっとあふれ出してほしい。やがてものすごい問題作も登場してほしい。そして、本当の問題が発見されればいい。批判が提示され、そしてまた別の批評的な観点が示され、何かがずっと爆発し、変わり続けてほしい。すべての書き手が無力感でなく、今自分が何かをしていると感じられたらと思います。

そうして、その人たちは私とまったく別のことに時間を費やすでしょう。

私の悩みの次の段階の悩みを抱くはずです。これは今現在のテーマに過ぎないという雰囲気ではなく、いつまでも、ずっと語り続けなければならないという雰囲気のなかで最初の一文を始めるのでしょう。そしてその時、こんな言葉を聞けたらと。

これは全部、あのときカン・ファギルにハンギョレ文学賞をやったからだ。あのとき、話題性を到底無視できず、カン・ファギルに賞をやってしまったから、みんなそんなふうに書いてもいいと勇気と信念を抱くようになり、それが続き、証明されてしまい、こんな状況にまでなったのだと。

はい。私はそんな言葉を聞きたいと思います。
できるなら、その時は本当に最前線で。
あいかわらず、怖れを大切にしながら。

ありがとうございました。

(出典:ハンギョレ出版社)

 

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