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『エトセトラ VOL.15』特集のはじめに

2026/6/3

2026年5月29日発売『エトセトラ VOL.15』(特集:部落フェミニズムに呼応する)より、「特集のはじめに」を転載します。『部落フェミニズム』という本を刊行して1年、その続きとして「呼応」の声を集めた特集をするに至った経緯と思いを書きました。ぜひ本誌も読んでみてください。

書誌ページはこちら

 

 特集のはじめに

 9人の部落女性がそれぞれの生の営みから部落を語り直した『部落フェミニズム』(熊本理抄編著、藤岡美恵子・宮前千雅子・福岡ともみ・石地かおる・のぴこ・瀬戸徐映里奈・坂東希・川﨑那恵著)をエトセトラブックスから刊行して、一年が過ぎた。これまで部落差別を受けながら、さらに部落解放や女性解放の運動から、歴史から「その他」とされてきた部落女性として、葛藤して書いたり語ったりしたそれぞれの言葉を、むさぼるように読み合いながらつくられた本だ。

 100年前から部落女性たちは「二重、三重の差別と圧迫」を訴えてきたが、その声は聞かれてこなかった。だから書きたい、書かずにはいられない。しかし思いを塞ぐように、本名やかかわりのある土地の名を出せば、親族やそこに住む人たちにヘイトの害や影響が及ぶのではないかとの逡巡が立ちはだかる。なんのために書くのか、本を出す意味があるのかと悩む9人に、非部落女性の編集者である私は、それでも書いてくださいと言い続けるしかない。制作期間は、その繰り返しだった。せめて、この人たちの言葉をひと言も漏らさず聞こうと思った。

 もちろん、すべてを聞けたはずはない。著者たちの考慮のすえ、というより、これまで部落女性の声を聞いてこなかった「読む側」にあまりに準備ができていないせいで、語られなかった話もたくさんあるだろう。でも、本をつくる過程そのものが〈部落フェミニズム〉だったと、そばにいたからはっきりと言える。

 この本には続きがあった。

 刊行後、部落女性たちの声に、「呼応」が少しずつ届き始めたのだ。部落にルーツを持つ、あるいはクィア、トランスジェンダー、在日朝鮮人、障害者……なんらかのマイノリティ属性を持つ人たちから、感想とともに自分を語る切実な声が寄せられた。

 一方で、部落男性や研究者たちから「この本は、部落女性には届かない」と批判もあった。大部分が、この本は部落女性には難しい、誰に向かって書かれているのかわからない、との内容だった。「いや、私は部落女性の声を聞いてきた」という、フェミニストからの反応もいくつかあった。

 あなた方は一体、どの立場で誰を代弁するのかと、正直、頭に血がのぼりもした。だけど、それよりまずは、いまここにある呼応を集めて残すことにした。批判に応えるためにも、根底にある非対称な権力関係の構造を問い直さなければいけない。私もあなた方も、そこに組み込まれているのだから。そこで、『部落フェミニズム』著者たちの協力を得ながら、この特集が始まった。

 特集に参加してくださったみなさんには、〈部落フェミニズム〉を始点に、あなたのフェミニズムと複合差別について書いて欲しい、語ってくださいとお願いした。『部落フェミニズム』著者からは、マジョリティからの呼応も入れて欲しいと要望があり、自分も含めてそのように取り組んだつもりだ。

 高知で部落女性として生きる中上曜子さんは、「他者の言葉を聞き、読み、自分の言葉で語り直し、他者の経験から自分の経験を照らし、自らの沈黙と不可視の元凶である抑圧の構造を理解し、自らの生を解きほぐしていく。まずはそこから始めることだ」と書く。

 在日朝鮮人女性の生を受け継ぐ李葎理さんは、「私にとってインターセクショナリティとは、誰の痛みが黙らされ、誰の犠牲が社会の踏み台にされてきたのかを明るみに出し、この社会の当然を問い直すための視点であり、実践である」と書く。

 優生保護法と闘ってきた障害女性の鈴木由美さんは、「うちらのためっていうよりみんなのため」に世界を変えていこうと語る。

 すべての原稿の声が、交差している。『部落フェミニズム』の本では、言葉だけで理解した気になるのを避けようとあえて使わなかった「インターセクショナリティ」が、この特集では、実践として確かに感じられる。

 今回お話を伺った、筑豊の元女坑夫たちの聞き取りを長年続けてきた井手川泰子さんは、書く理由を、「知ったうえはなんかせな(知ったからにはなにかしなくてはいけない)」からだと語ってくれた。暗い坑底を這いずり働いて生きた「ヤマのばあちゃんたち」の話を皆に知らせんといけん、自分には、聞いた責任があるのだと。

 この特集は、部落女性の声と呼応を聞いた編集者が、到底ひとりでは抱えきれないその重さを、みなさんに共有するものかもしれない。まだ聞けていない呼応の声は、無数にあるはずだ。また、ここで語られたフェミニズムと複合差別に、マジョリティとして共通の課題を見出していけるかもしれない、という希望を込めて。

 そして、いまの時点でもなお、自分を「非部落女性」と呼ぶ私は、堀江有里さんが論考で触れているとおり、マジョリティとして部落差別を考えるための主語を持てていない。トランスジェンダーにたいするシスジェンダー、障害者にたいする健常者、在日朝鮮人女性にたいする日本人女性、日本の植民地主義的なフェミニズムを問い直す「やまとフェミニズム」――などに並ぶ名称や概念を持たずにいる限り、差別に加担してきた側としての文脈を、まだ引き受けてはいないのだ。読んでくれたみなさんと、一緒に考えて次に進んでいきたい。

 聞いたうえはなんかせなと、ここから実践を繋いでいこう。それが私の、私たちの責任だ。(編集部・松尾亜紀子)