【試し読み】私たちが「We ❤Love 田嶋陽子!」である理由① by 山内マリコ

2019/10/30

表紙_エトセトラvol2

責任編集の山内マリコ&柚木麻子は、なぜ今、「田嶋陽子」を特集しようと思ったのか? そして、なぜLOVEなのか!?  刊行間近!の『エトセトラ』VOL.2 特集:We ❤Love 田嶋陽子! を少しだけ先に公開いたします。

 

 

はじめに: 田嶋陽子を救え!
山内マリコ

 

田嶋陽子さんは90年代以降、「テレビでおじさんとケンカしてるフェミニスト」として認識されてきた。そして多くの人が、そんな彼女にちょっとネガティブなイメージを抱いてきた。
なぜならテレビはいつも、田嶋陽子さんの発言に不快感を示すおじさんたちの味方だったから。田嶋陽子さんの正論を、おじさんの論理でまるめこむことで生まれる笑いに加担してきたから。田嶋陽子さんをわからず屋の嫌われ者に仕立て、おじさんたちを良識ある偉い人として描きだしてきたから。そしてわたしたちはあのころ、テレビのいいなりみたいなもんだったから。
あのスタジオの雰囲気を学校の教室にたとえるなら、やりたい放題の人気者男子に、「あんたたちいい加減にしなさいよ」と、可愛げのない女子が唇を尖らせて食ってかかる、みたいな感じだろうか。男子はみんなその女の子が嫌いで、いつの間にか彼女は集中砲火を浴び、気がつけば周りの女子まで笑って、「ああはなりたくないよね」とバカにしている。そう、立派ないじめだ。あれはそういう構図だった。
テレビが持つ宗教的なパワーとイデオロギー拡散力によって、そのイメージは鍋底の焦げつきのように定着してしまった。少なくともわたしは、ずっと田嶋陽子さんのことをそういうふうに思ってきた。フェミニストを自覚して、ものを書くようになったこの10年、考え方もずいぶん変わったし、ちょっとは賢くなったつもりでいた。なのに、日本一有名なフェミニストである田嶋陽子さんに対するそういうイメージは、放置していた。

だけど、あるとき田嶋陽子さんの著作を読んで、仰天したのだ。そこには、透徹したまなざしと、鋼のような信念に貫かれながら、ほろほろのクッキーみたいに素朴で優しい、研究者の姿があった。とりわけ、フェミニズム論集大成とでも言うべき『愛という名の支配』は大変な名著だ。この本に感動し、道行く女性に配ってまわりたいと熱望したことが、今回の特集の出発点である。
わたしが田嶋陽子さんの本を読んでみようと思ったきっかけは、ツイッターだった。「田嶋陽子のことをモテない女だと思っておっさんたちはバカにしてるけど、彼女ってヨーロッパでイケメン貴族と大恋愛した人なんだよね」みたいな投稿だったと思う。次々出版されるフェミニズム関連本を考えなしに買い漁り、けっこう積読してしまっているわたしも、そういえば田嶋陽子さんの本は手に取ったことがなかった。
最初に読んだのは、『フィルムの中の女──ヒロインはなぜ殺されるのか』。題名だけではっとする人も多いと思う。映画ほどマッチョな芸術もなく、女優も、女優が演じる役も、監督の裁量ひとつでもてあそばれた。そのことに約三十年前に気づき、彼女は本にしていたのだ。
英文学を出発点に、自身の体験を徹底的に見つめ、分析することで女性差別の構造を暴き出した彼女は、フェミニズムの視点から文学や映画を評論するというエッジーな仕事をしつつ、テレビという恐ろしい敵地に丸腰で挑み、世間から誹謗中傷されながらも、打席に立ちつづけた。今も立ってる。
こんなめちゃくちゃカッコいい最強のフェミ・アイコンが誤解されたままだなんて、間違ってるし、悲しすぎる。

テレビは相変わらず、女同士の対立を煽り、おじさんの意見が正論とされ、コメンテーターの何気ない発言から滲みでる女性差別が垂れ流されている。あーあ、このメディアがもっとまともなメッセージを発信してくれたら話は早いんだけどな……と、いつも思う。
わたしたちにテレビは変えられない。だけど、テレビによって作られてしまった、田嶋陽子さんのイメージは変えられるかもしれない。誤解された一フェミニストを、この手で救いたいのだ。
もちろん、田嶋先生は誤解なんてものともせず、シャンソン歌いまくって毎日エンジョイされているわけですが。でもこれが、わたしたち世代がやるべきことなんじゃないかと思うのだ。藪だらけの荒野を開拓し、わたしたちがケガしないよう道を作ってくれた先達を、正しく評価しようと、扇動することが。この、日本でいちばん誤解されたフェミニストを救うことは、日本の女性全員を救うことになるんじゃないかと、わたしは思うのだ。
『エトセトラ』VOL.2 より)