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カルメン・マリア・マチャド『イン・ザ・ドリームハウス』(小澤身和子訳)訳者あとがきを公開します | book | エトセトラブックス / フェミニズムにかかわる様々な本を届ける出版社

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カルメン・マリア・マチャド『イン・ザ・ドリームハウス』(小澤身和子訳)訳者あとがきを公開します

2022/6/24



デビュー短編集『彼女の体とその他の断片』が世界中で絶賛を浴び、「21世紀の小説と読み方を変える、女性作家の15作」に選出されたカルメン・マリア・マチャド待望の第2作は、レズビアン間のドメスティック・アビューズ(虐待)を語る〈メモワール〉。スリラー、おとぎ話、SF、クィア批評、裁判記録…etc. これがノンフィクションなのか? と驚く、あらゆるジャンルを超えた146の小章からなる本作の「訳者あとがき」を公開します。小澤身和子さんがなぜこの作品がいま書かれ、読まれるべきか、書いてくださいました。できれば作品を読んでから、もう一度味わって欲しいあとがきです!

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訳者あとがき

 本書は、2019年に刊行されたカルメン・マリア・マチャドによるIn the Dream House(グレイウルフ・プレス)の翻訳である。デビュー作の短編集『彼女の体とその他の断片』(エトセトラブックス)で全米図書賞の最終候補に残り、「ニューヨーク・タイムズ」紙に「二十一世紀の小説の書き方と読み方を変える、女性作家による最高の十五冊」に選ばれた新進気鋭の作家による、待望の新作は、ノンフィクションの回顧録だった。

 そうは言っても、マチャドの手にかかると、何重もの企みを含む「回顧録」になる(そもそも、本書を「ノンフィクション」と呼べるのかは疑問だが、Literary Hubは2019年にもっとも書評が多く書かれたノンフィクション作品の一つに挙げている)。本筋として時系列で綴られているのは、彼女が大学院生時代に同性パートナーから受けたドメスティック・アビューズだが、同時に、クィア表象についての考察や、レズビアン間での虐待をめぐる裁判記録、古い新聞記事など、さまざまな「事実」も記されている。

 本書の構成は実に特徴的で、テキストが建築物のように積み重ねられていく。まるで、さまざまな形式で書かれた146の小章が、タイトルにもなっている「ドリームハウス」を構築するかのように。本文に入る前には、ルイーズ・ブルジョワの「人はレンガのように関連性を積み上げていく。記憶自体がある種の建築物なのだ」という言葉が引かれているように、さまざまなテキストの積み重ねはマチャドの記憶の再構築でもあり、献辞やエピグラフはそれを支える確固たる基盤のように思える。いずれかが失われてしまえば、すべてがばらばらに崩れてしまう危険性があるとも言えるし、逆に虐待の記憶というトラウマを一つの枠に収めないことで、逃げ場を与えているようにも読める。回顧録の執筆は「最初の本を書くよりもずっと辛かった」とマチャドはthemのインタビューで、答えている。

レズビアン間のドメスティック・アビューズは、これまで回顧録でもノンフィクション作品でもなかなか語られてこなかったという事実を受け、「特定の物語のレンズを通してではなく、私自身の言葉や考え方を通じて、『これは私の経験です』と提示することが重要に思えた」という。

 そうして編み出したのが、思いつくだけのありとあらゆるジャンルを用いて、出来事を記録するという方法だ。「ニューヨーク・タイムズ」は、この手法についてこう評している。

 マチャドが本作で試みているのは、見過ごされてきたものを見過ごさせないための手法だ。堅固な現実としてトラウマ的な経験をした作者が、その経験を振り返りながら世界と自己を認識し直していくうちに、意味が増殖していくという、厄介な両義性がマチャドの体験と作品を表しているように思える。

 本書で繰り返し問われるのは、確固たる証拠がない状態で、自分が経験した精神的・心理的暴力をどう立証できるのか、ということだ。本人にしかわからない痛みや辛さを、どう人に伝えれば、信じてもらうことができるのか。そうした経験は、果たして虐待と呼べるのか? 顔にあざができるほど殴られなければ暴力にならないのか? 「森のなかで木が倒れ、地面に串刺しになったツグミが、金切り声で悲鳴をあげても誰にも届かなかったとしたら、彼女は音を立てたことにならないのか?」とマチャドは問いかける。

 まさに、2018年に実際に起きた騒動を思い出さずにいられない。若い女性作家が、ピューリッツァ賞も受賞した作家ジュノ・ディアスから無理やりキスされるという性的暴行を受けたことを告発した。それを受けて、マチャドも学生時代に、インタビュアーとしてイベントの場でディアスに、彼の分身でもある小説の主人公は、なぜ女性と病的な付き合い方しかしないのか、と質問した際に、聴衆の前で20分間まくしたてられ、非難を浴びせかけられた、と自分の体験をTwitterに綴った(現在そのツイートは削除されている)。その他にも同じような体験をした女性の作家が声を挙げたため、大きな騒動となったが、結局ディアスへのお咎めはなく、Voxのようなメディアは、問題のイベントの録音を聞いて、そこまでディアスの口調は強くなかったように思える、とコメントした。当時マチャドが壇上で感じた恐怖や侮辱は、どうすれば証明できたのだろうか。

 本書はそうした悲鳴を書き留めた記録でもある。マチャドは「メモアールとは根本的に、再生する行為だ。回顧録を書く者は過去を作り直し、対話を取り戻す。長い間眠っていた出来事から意味を奮い起こさせ、記憶やエッセイ、事実、知覚の粘土を一緒に編みこんで、叩きつけてひと塊にし、ならして平らにする。時間を操作して、死者を蘇らせ、自分たちと他者とを、必要な文脈に落とし込む」ものと述べており、はじめに、本書を書く目的は「ジェンダー・アイデンティティを共有するパートナー間のドメスティック・アビューズが珍しくなく、実際にありえるものと見なされているアーカイブ」を作成するためだと明述している。その際には「アーカイブの沈黙」という概念にも触れ、これまでいくつもの声が見逃され、消去されてきた事実を提示している。当然、そうした声を本にして刊行(アーカイブ)するのは、もみ消そうとする大きな流れへの抵抗なのだ。繰り返すが、これまで言葉にされなかったことに、言葉を与えるというのが本書の醍醐味である。

 その挑戦は、ルールに縛られることなく、何かの形に合わせようとすることもない。冒頭の「序曲としてのドリームハウス」には、「私は序章を読まない」と書かれているし、次のページの「序章としてのドリームハウス」は、一般的な序章とは似つかない「アーカイブの沈黙」についての考察となっている。そこから続く144の小章は、ゴシックや、サイエンスフィクション、スリラーなどさまざまな手法を用いて書かれており、読者にその先の展開を選択させる心理ゲームのような手法を取り入れたものもある。作家が本書で伝えようとしていることの脆弱性を意識させるような構成や形式は、自分が一体何を読んでいるのかと、これまでの読書体験を揺さぶられ、試されているような気持ちにさせられるが、この奇妙さ(ストレンジネス)こそが、本書の特徴なのだ。

 マチャドは、小柄でブロンドでフェムとブッチの両方を兼ね備えるガールフレンドとの出会いから、ふたりが恋に落ち、インディアナ州ブルーミントンの小さな家で同棲をはじめるまでの甘い月日を、恋愛小説のように描いていく。しかしそのうちガールフレンドはものを投げたり叩いたり、暴言を吐いたりするようになる。マチャドが電話に出なかったり、行動が把握できないと激怒したり、何度も電話やメッセージを送り続けたりもする。親密な関係にある相手からの虐待は異性愛を扱った恋愛小説やドラマでよく描かれるテーマで、何も新しいことはない。ただ、そこでふと思う。どこかで虐待は異性愛間のものだと思いこんでいないか。虐待される女性はかよわい存在だと勝手なイメージを抱いていないか、自分に問いただす。

 ドメスティック・アビューズと言うと、異性愛が前提となり、加害者は男性で、被害者の女性は「おとなしくてストレートで白人」の〝女性的な〟人物という従来のプロファイルがあるとマチャドは書く。マチャドはそこに自分が当てはまらないことを自覚している。レズビアンは女性に暴力を振るわない、というのはある種の人間に悪行を許さないことであり、それは彼女たちの「人間性までをも否定してしまう」ことになる、とマチャドは考える。「パリス・レビュー」インタビューでは、自分はファンタジーや夢を信じているけれど、それらがクィアネスの究極のクリシェであり、そのせいでいかに現実が見えなくなってしまっているかという皮肉を語っている。

 マチャド自身も偏見があったことを吐露している。「間違いの喜劇としてのドリームハウス」では、泣いていたときに親切にも話しかけてくれた女性のことを、時代に合わない髪型をしていると、まずは外見で判断してしまう。すぐにそれを反省するも、話をしていくうちに、自分は彼女を異性愛者だと思いこんでいるが、もしかしたら彼女もクィアなのかもしれないと気づくのだ。そうした気づきは、いくつものレベルで本書に散りばめられている。

 例えば、マチャドは本書でたびたび動物を登場させている。半分眠ってしまうくらい疲れているのに、運転を代わりたがらないガールフレンドが暴走を続けてようやく自宅に到着すると、庭にコヨーテがいる。ガールフレンドは暴言を吐きながら、ドアを蹴り開けて家の中へ入ってしまう。マチャドが文字にするまで誰も知らなかったその時の出来事を目撃しているのは、そのコヨーテだけだ。作者の姿を静かに見守る動物たちの姿は、希望を与えもするが、同時に、それはこちらの勝手な思い込みであり、彼らにしてみれば、人間は脅威以外の何物でもなく、実際、少し音を立てるだけで逃げていってしまうのだ。なぜ自分を中心にものごとを考えてしまうのか。どうして自分たちが優位だと思ってしまうのか。こうしたエピソードは、そうしたことにもう一度気づかせてくれる。

 マチャドは、自分がいろいろな意味でマイノリティであることを十分理解している。キューバ移民の子孫であり、レズビアンで、(本書でも本人がたびたび指摘するように)太めの体型の女性。そうしたアイデンティティが生み出す辛さや痛みは、マジョリティからしてみれば、遠くの他人の出来事として処理されてしまう。マチャドは、本書の中でyouとIを巧みに使い分けているが、読者にマイノリティの問題に自分も関連しているという意識を植え付けようとしているように思える。基本的にyouは過去のマチャドを指す代名詞として使われているが、同時に読者に向けられてもいる。読者はドリームハウスに閉じ込められ、混乱した辛い経験の記憶を、首尾一貫した物語にまとめ、理解しようとするマチャドの闘いを一緒に追体験すると同時に、その問題は決して他人事として切り離せないという警告を受け続けている。

「きみならどうする?R としてのドリームハウス」の章は、youが過去のマチャドなのか、読者に向けられているのかが特に曖昧で、未来の行動をyouに選択させる心理ゲームの形式で書かれているので、読者は自分の行動を非難されているようにも感じるし、選択に責任が持てるのか? と問いただされているようでもある。本書の最後で、youとIは結びつく。「いつもこの体に住んでいればよかった(中略)あなた(you)もこの体で一緒に生きてこれればよかった(中略)大丈夫だよ、うまくいくよとあなたに言ってあげられたらよかったのに」過去の記憶を遡ってきた現在の作者が過去の自分を受け入れようとするこの場面は、読者の「あなた」にも向けられているのかもしれない。

 本書は刊行されるとすぐ、各主要紙に絶賛する書評が掲載され、米国ではジュディ・グラーン・アワード・フォー・レズビアン・ノンフィクションを、英国ではラスボーンズ・フォリオ賞を受賞し、「タイム」誌をはじめとする数々の主要メディアの今年の一冊リストに選ばれた。その他にも、二一年にはペン/ジョン・ケネス・ガルブレイス・アワード・フォー・ノンフィクションにノミネートされるなど、高く評価され続けており、すでに八カ国語での翻訳が決定している。

 しかし、本書にはレズビアンのセックスについても記されていることから、子どもたちにとって有害と感じる人もいた。二一年、テキサス州リアンダー在住の母親が、子どもを通わせている高校の英文学の授業で扱う図書に本書が入っているのを見つけ、「児童虐待」だと教育委員会に訴えたのだ。これを受けてマチャドは「ニューヨーク・タイムズ」に、禁制本にするというような検閲は、「短絡的で、暴力的で、許しがたい」行為と非難している。「​​私たちの本には、気まずさを覚えたり、挑戦的であったり、不快に感じたりする箇所があるかもしれませんが、そうした本に触れることは、心を広げ、誰かの経験を肯定し、芸術に対する理解を深め、人々の共感を得るために不可欠なのです」

 一方で、Netflixのオリジナルドラマ『セックス・エデュケーション』シーズン3は、本書をフェミニズム書として肯定的に捉えている。このドラマは、イギリスの田舎町を舞台に繰り広げられる青春ドラマで、さまざまな性の悩みを持つ高校生たちの問題を通じて、他者への思いやりや自己愛を考え直そうという素晴らしい作品だ。主人公の一人で、問題を抱えた貧しい家庭に生まれながらも優秀さを武器に道を切り開いていくメイヴが読み、奨学金で大学に進学するために書く志望動機書に「さらに学びたいと思う本」として登場するのが本書なのだ。ドラマ内では一瞬しか登場しないのだが、制作陣の意識の高さに脱帽した。

「物語をバラバラにしたのは、自分の精神が崩壊してしまって、他にどうすることもできなかったから」と書いているとおり、本書はこのような語りでしか語れないという切実さが伝わってくる。読者はすぐに完全に理解できなくても、何かクィアでストレンジなものを感じとり、忘れられない記憶として残り続ける。まさに沈黙を破ったマチャド流の「アーカイブ」であり、歴史的資料として残る作品を作り上げたと言える。クィアの表象でもある本作は、これまでのセクシュアル・マジョリティ中心の文学*に対する挑戦でもある。

 マチャドはインタビューで、本書刊行をきっかけに多くの人からメッセージをもらったと述べている。ジェンダーやセクシュアリティが異なる人も「心に響いた」と言ってくれたそうだ。本書を読んだ後、「結局どうしたらいいんですか?」と聞かれることも多々あったそうだ。それに対して彼女は「私はソーシャルワーカーでもなければDVの専門家でもない。ただ自分の身に起きたことを書いただけ」と答えている。答えはそう簡単に見つからない。本書はマチャドという人間の苦悩とサバイバルを描いたものだが、それを目撃した私たち読者は、これから共に、クィアが一人の人間として正当に扱われる社会に向けて何ができるのかを考えていかなければならない。マチャドは「あまり多くの場所を与えられてこなかった、ある特定の経験に向かって書いているのだと思う。でもそれは悲しいことでもあるんです。つまり、たくさんの痛みがあるということだから。でも、この本を書く苦しみは、それに見合うだけのものだった」と述べている。

 最後に、マチャドのバックグラウンドについて。1986年、アメリカのペンシルベニア州**アレンタウンでキューバからの移民二世の家庭に生まれる。物語を語ることが好きな家庭で育った彼女は、読書や家族の口伝えで物語を知り、執筆するような年齢になると、「物語」や「本」を書いては出版社に送っていた。子どもの頃から、モンスターや悪魔についてよく考えていたそうだ。大学では恩師に恵まれ、作家としての可能性を見いだされ、2012年に、アイオワ大学のライターズ・ワークショップにて芸術学修士号(MFA)を取得。また、クラリオン・ワークショップでは作家のテッド・チャンに師事した。本格的に執筆を開始した一一年以降、数々の賞を受賞し、フェローシップやレジデンシーも受賞。右腕にはShe didn’t look back, but stepped off the edge of the known world.(彼女は振り返らず、既知の世界の端っこから飛び降りた)というタトゥーを入れている。現在は本作にも登場するヴァルと結婚し、ペンシルベニア州で暮らしている。

 最新作は、20年にDCコミックスから刊行されたThe Low, Low Woodsで、彼女が原作を担当する本シリーズは、これまで6巻刊行されている。待望の次作はA Brief and Fearful Starという天体をモチーフとした短編集で、クノップフ社から刊行される予定だ。現在まさに執筆中ということで、今からとても楽しみにしている。

 原作を紹介してくれ、翻訳原稿に的確なアドバイスをくれたエトセトラブックスの松尾亜紀子さんに感謝を伝えたい。また、円水社の校正担当の方には細かいご指摘を頂き、とても勉強になった。ドメスティック・アビューズの定義について丁寧に教えて下さった小山内園子さんにも心から感謝を。登場する映画の受賞歴の有無など、事実とは異なる点もあるが、本書が作者の記憶をもとに書かれた本であるという点を重視し、原書の通り訳した。また、「リポグラムとしての夢の家」の章は、「うくすつぬふむゆる」を抜いて訳していることを捕足したい。一人でも多くの方に届いてほしいと思うのは毎度のことだが、本書に関して言えば、最初に読んだ時に、中盤と読後に覚えたあのなんとも言えない高揚感(どうしても内容について誰かに語りたくなった)を、みなさんと共有できていれば何よりも嬉しい。人々の想像が追いつかないような女性の経験を語るマチャドの声が、多くの日本の読者に届きますように。クィアネスがあったからこそ、このような本が生まれたことを、みなさんと一緒に考え続けていきたい。

2022年5月 小澤身和子 

編集部注
*書籍初版では「シスジェンダー中心の文学」としておりましたが、クィア、セクシュアル・マイノリティへの認識が不足した表現でした。ここに訂正とお詫び申し上げます。

**前作『彼女の体とその他の断片』の著者略歴に、「フィラデルフィア生まれ」と記載していたのは誤りでした。著者本人の表現によれば、「フィラデルフィアから北へ一時間ほどのところにあるアレンタウン生まれ」で、正しくはペンシルベニア州です。著者と読者の皆さまにお詫び申し上げます。